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小説:いつかどこかのシロクマ

 この辺にシロクマ出るらしいよ、と筆子が言う。僕は、座椅子に体を支えてもらいながらスマホの画面を見ている彼女の姿を見て、そういえば今日はまだこの子の顔をはっきり見ていなかったなと思う。切れ長の一重瞼、通った鼻筋、不健康そうな唇、夜のように魅惑的な黒髪を黙ったまま眺め、僕は彼女の表情が変わることを期待する。見つめられていることに照れて笑ってもいい、じろじろ見られることの不快さをしかめっ面で表してもいい、突然泣き出したっていい。問題は、彼女がどんな表情をするか僕には全く予想がつかないということだ。僕は未だに筆子のことを色々と覚えていない。覚えられるだけの時間を一緒に過ごしているのに。
 だが、結果的に僕は待ち切れずに「シロクマって、北極にいるやつ?」と返事をする。筆子はスマホの画面を見たまま「動物園にもいるよ」と僕に言う。僕はスマホの画面の中にはいない。
「まあ確かにそうだ。動物園にいるなら、こんな郊外の住宅街に出ることも可能だ」
「何か最近よく目撃されてるらしいよ、ほら」
 筆子がスマホの画面を向けてくる。ベランダ前の掃き出し窓でぼんやりとした太陽光に当てられていた僕は、彼女の方に身を乗り出し、それを見る。
「へえ」
 僕がたった一言そう反応すると、筆子はすぐに画面を反転させ、また指先で操作し始める。
「先週くらいから街中とか家の前でシロクマを見たってツイートが流れ始めててさ、え、どこの話? って思ってたら、写真とか動画撮ってる人がいて、見たらこの辺だったんだよね」
 本当かよ、そんなことあり得るか? と返事しながら、僕はまるで初めて会ったかのように彼女の表情や仕草を見ている。ほんとだよ? 由宇のTLには流れてきてなかったの? と、笑うその声だって、僕が今まで聞いた声とは全く違うものに聞こえる。
「信じられないな。シロクマなんてさっき言った通り動物園にしかいないし、先週から何回か外を歩いてるけど、一度も見かけたことなんかないよ」
「だからその動物園から逃げ出したんじゃないの?」
「けど、ここから一番近い動物園って、電車とバスを乗り継いで2時間半のところだろ?」
「しかもそこにシロクマはいないしね」
「そうなのか」
「ペンギンだっていなかったでしょ。何かよくわかんない、おっきくてどす黒い爬虫類はいたけどさ」
 何だか僕と一緒に行ったことがあるような言い回しだなと思ったが、よくよく考えたら一緒に行ったことがあった気がする。あれはいつのことだったのろう? というより、これから初めて行くような予感もする。
「由宇は見てる量が足りないんだよ。もっと色々見ないとシロクマも見られないよ」
 筆子が僕の目を見て言う。僕は筆子に見られている。
「そうかもしれない」
 僕は掃き出し窓から外の空を見る。
「そうか、曇ってたのか」
 僕は立ち上がる。僕は座っていた。立ち上がろうと思って立ち上がる。
「どしたの、急に」
 筆子が僕を見上げて聞いてくれる。
「いや、シロクマを探しに行こうと思って。一緒に行く?」
 僕の誘いを聞いて筆子は少し吹き出してから、「いいよ」と答えた。僕はそんな彼女を見て、今、ここで、とても可愛いと思った。



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