小説:あの日あの場所のフレンチトースト

 わたしは、今まで生きてきておおよそ不味いフレンチトーストというものを食べたことがなかったのだけど、一度創也と一緒に行ったカフェで出てきたフレンチトーストが衝撃的に美味しくなくて、完食することもできなかった。というか、思わずその場で「え、これマズ……」と口に出してしまった。わたしが味わった衝撃は、その水準だったということだ。
 創也の方も創也で、わたしの反応にびっくりしたらしく、「え、ちょ、そんなに……?」と、わたしの顔を見ながら、手にしたコーヒーカップを硬直させていた。ちらちらと周りに目をやる創也は、少し焦っているようだったけど、それは店員さんにわたしの声が聞こえていなかったか気にしているだけではなく、初めてのデートで、相手がいきなり店の食べ物に対して、その場で「不味い」と口にする女だということが判明したショックもあったのかもしれなかった。
 わたしだって、普段からこういう状況でこんなあからさまな態度は取ったりしない。自分で言うのは恥ずかしいにしても、わたしはもう少し丁寧で落ち着いた人間だ。わたしはそのフレンチトーストのせいでキャラを崩壊させ、創也はそのことにショックを受けた。
 その後、わたしと創也は何とか付き合い続け、ぼちぼち結婚しようかという話がお互いの口から出るくらいの時を一緒に歩んだのだけど、その時に創也から、あの時のフレンチトーストの話が出た。
「李佳、最初にデートした時のこと覚えてる? カフェでフレンチトースト食べた時のこと」と、二人でアパートまでの帰り道を歩いている時に聞かれ、そして、どういうわけか、わたしはその時のことをよく覚えていた。
「うん、覚えてるよ」と、笑い混じりに答え、やや恥ずかしくも感慨深い思いに駆られた。初デートであんなことを言ったのに、今やここまで辿り着けたんだな。あれは創也が紹介してくれたカフェだったし、失礼な振る舞いをしたものだった。結局、あの後わたしは気を取り直して上品な女をアピールしたけれど、あの時の不意を突かれたような正直な反応は何だったのか……我ながら未だに不思議ですらある。あのフレンチトーストの味には、そこまでの力があったのか。
 そんなことを思いながら、わたしは「あの時はめっちゃ引いてたよね」と、創也に言う。すると、創也も笑いながら、「いや、良いんじゃない。俺もあの時のコーヒーめっちゃ不味いなと思いながら、我慢して飲んでたし……」と言い始めて、何じゃそら、わたしにだけ失態を晒させるなんてズルい、と思う。
「創也も言ってくれたらよかったのに」と、わたしが不満をぶつけると、「いや、あの時は最初だったし……素を見せる勇気なかったんだよ。ごめんね。」と言って謝る。さらに、「あの日は緊張してたんだけど、実はあれが切欠で、初めてちゃんと李佳の顔を真正面から見れたんだよね。だから良かったよ」と、やや照れた風に言う。え~何それ、とまた思うけど、まあ創也は創也で、あの時の小さな絡まりをほぐしたかったんだろう。その分はすっきりしたようだし、別に良いか。わたしは、ふうと苦笑しながら息を吐く。今、この時になって、わたしたちはそんな話をして、聞いてあげられるようになったのだ。


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