小説:僕の中の真帆

 僕の中には真帆がいる。
 真帆は僕が高校一年の時に同じクラスだった女の子で、二年の時も同じクラスだった。三年の秋に、理由もわからぬまま、ただ突然いなくなり、それから一年後に僕の中に現れた。
 高校時代、まだいなくなる前の真帆と僕は、それなりによく話す間柄だった。一番ではないが、学校における僕の人間関係の中では三番目か四番目に話す時間が多かった相手だ。たぶん、真帆の方にとっての僕も、同じような相手だったのだと思う。
 そんな程度には気心の知れた相手だったし、僕たちの置かれた状況があまりにも異常なものだったので、僕は自分の中の真帆に、僕の中に現れた理由や、空白の一年間について尋ねてみた。が、真帆はそれらの質問に対しては、大した興味もなさそうに「わからない」「覚えていない」と返すだけだった。
 真帆はそうでもない様子だったが、僕の方は困ってしまった。突然自分の中に別の人間が出現し、その理由が不明なままなのだ。落ち着かないのは当然で、それで余計に僕は真帆によく話しかけるようになった。前述した話題については、繰り返したところで得られるものはなさそうだったので、口にするのは我慢し、「僕の中の居心地はどうだ」とか、「外に出たいという気持ちはあるのか」といったことを尋ねてみることにした。真帆の答えは、「落ち着いたり落ち着かなかったりする」「外に出たかったり出たくなかったりする」というものだった。結局のところ、こちらの質問も要領を得ない結果になってしまった。
 真帆は時々僕をつねることがある。どこをつねっているのか、と聞かれると、うまく答えることができないのだが、とにかく、自分の中にいる真帆につねられているという感覚はある。
 それで、真帆に「なぜつねるんだ」と聞くと、「別に」と返ってくる。真帆は顔を背け、何もはっきりと言わない。この状態を楽しんでいるのだろうか? あるいは、ずっと僕の中にいて、他のどこにも行けないことが退屈なのだろうか? わからないが、真帆はまた僕をつねる。
「やめてくれ」と僕が言うが、真帆は少しだけ笑って、しばらくすると、再び僕をつねる。やれやれだ。
 そんな日々が続き、やがて僕は、大学で知り合った篠崎千里という女の子と付き合うようになる。僕にとって初めての恋人で、恐らく僕は楽しかったはずだ。はずだ、というのは、その時にも、僕の中には真帆が居続けたからだ。僕に彼女ができたことは、少ししてから、真帆にも伝わらざるを得なかった。伝えずにいることもできたかもしれないが、そうすることはしなかった。僕と真帆が一緒にいるならば、伝えないでいることは不自然であるように思えたのだ。
「そうなんだ。良かったね」真帆は、少し変な顔でそう言ってくれた。「ありがとう」僕も少し変な顔でそう言った。
 僕は真帆に、「そういえば、お前が僕の中に現れてどれくらい経つんだっけ」と言った。言ってから、言うべきだったのかどうか、少し迷ってしまった。
 真帆は、「わかんない。ここにいると時間の感覚忘れちゃって」と答えて、ごろんと僕の中で横になった。仰向けで、目を閉じ、お腹の上で手を組んで、まるで棺桶に入っているようだった。
「そうか。カレンダーでも置いておけばよかったな」
 僕が言うが、真帆は「うん」と言うだけで、黙ったまま動かない。眠っている、というか、眠ろうとしているように見える。
 僕は気まずくなって、後悔し、何も言わないまま、部屋着を脱いで着替え始めた。
「何してんの?」
 真帆が寝転んだ姿勢のまま、動くことなく、小さな声で尋ねてくる。
「着替えてるんだ」
「お出掛け?」
 聞かれて、僕は一瞬だけ間を空けてから、「うん」と答えた。たった二音を発するのに、僕の声は少し上ずってしまった。
「そっか。楽しんできてね」
 真帆はそれだけ言って、体を横に向けて僕に背中を見せた。
「うん」
 僕が見た真帆の最後の姿は、その背中だった。とてもとても、小さな背中だった。
 そうして、僕の中から真帆はいなくなった。
 いなくなったはずだが、僕はその後すぐに篠崎千里と別れてしまったし、今でも、僕を中からつねるあの感覚がやって来ないかと、時々考えている。


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