『こころ』

漱石『こゝろ』をプラトニックな同性愛文学と見る見方が50年代にもあったのかどうか知らない。しかし、同性愛に対する世間の認知が乏しかった当時に、文豪の名作の隠れた側面に光を当てる試みは、かなり大胆なチャレンジだったことだろう。この映画はそのチャレンジを遠回しながら、はっきりと分かる形で敢行している。

とはいえ、原作で同性愛傾向がもっとも顕著な学生の「私」はむしろ背景に追いやられ、彼が慕う「先生」の友人Kに対する特別な感情に焦点が当てられる。貧しいながら肩肘張って生きるKを「先生」は強引に自分の下宿に同居させ、食事代などあれこれと細かく気を配る。

ここまでなら、友情に基づく行動とも言える。しかし、下宿屋の美しい娘、静を巡る関係となると、もはや友情では説明がつかない。静に恋したKの告白を聞いた「先生」は、突如、静の母親を通じて彼女に結婚を申し込む。

これは明らかに、静をKに奪われるのを阻止するためではない。Kを静に奪われるのを阻止するための行動だ。それまで「先生」は、静に特段の関心を示していなかった(「先生」と結婚した静は、のちに「あなたは私ではなく、お友だちを愛している」と冷たく言い放ち、図星を指された「先生」はひどくうろたえる)。

静が「先生」と結婚すると聞いたKは命を絶つが、彼の死を「先生」はあたかも予期していたかのように泰然と受け止める。人は愛する対象を独占したいあまり、時にその死を願いさえするものだ。ジョン・レノンを射殺したマーク・チャップマンのように。

原作の力に負うところが大きいことは否めないにせよ、これは市川崑の初期の代表作にあげていい1本だと思う。極度に抑制的な感情表現を演者たちに課しているところに、洗練された演出センスが光る。新珠三千代の凜とした冷たい美しさが印象的。大味なアクション俳優のイメージが強かった三橋達也が、誇り高く純粋なゆえに傷つきやすい青年Kを好演して瞠目させる。

ちなみに、漱石が生きた明治期はキリスト教倫理が導入されてからまだ日も浅く、江戸時代の男色文化、特に薩摩の衆道文化を引き継いで、男性同性愛に対する忌避感がそれほど強くなかったらしい。白袴隊なる無法集団が夜な夜な、美少年狩りに精を出していたという。


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