正論の押し付けからは何も生み出されない

ざわざわするようなタイトルですが、今日は普段考えていることに対して。

たびたびTwitterで垣間見れること

私は何年もTwitterにお世話になっているのですが、様々な価値観があって非常に興味深いな、と思う反面、思うことがあって。

不妊治療の件もそうだけれど、子育てをしている方や、さまざまな方のツイートを見ていて、リプライが地獄絵図になっているのを目にすることがあります。

個人がふと思ったことや、考えたことについて、あーだこーだと正論をぶつけている人が、多くありませんか?ということについて書き連ねて参りたいと思います。

日本人の性質とネットリテラシー

もともと「誰かと一緒」を好む日本人はTwitterというツールに向いていないかな、と思っていました。

真面目で謙虚な本質を持つ一方で、本音と建前がある日本人は、Twitterでは「闇」を呟くことが多い。。

そしてその「闇」や「影」の部分に対して、同じようにその「闇」を利用して、わざわざアカウントを作ってまで、リプライで返したり。。

面と向かっては言えないけれど、言葉で相手を支配したり、糾弾したりすることができると思っている人が多い。電話のクレーマーとかもそうでしょうか。

私たちが住んでいるこの国は、ちょっと生きづらい国になっているなぁと感じています。それは私が置かれた状況もそうだけれど、社会情勢の悪さや少子高齢化による人手不足、賃金の引き下げと増税、情報の印象操作まで、国が作ったありとあらゆるシステムにストレスを感じている人は多いのではないでしょうか。

そのような中で、自分の思いの内を日記感覚でTwitterに晒す人があまりに多すぎる。私がこんなnoteを書いていて、声を大にして言える事ではないんですが、あの日はどこにいて、何をしていたのか、どんな感情を抱いていたのか、Twitterを遡ってふり返ることってありませんか?

そこから会社や実名がバレたり、顔が晒されたり、最近ではそれを利用した「匂わせ」なんかも逆に流行っている、というから驚きです。

ですから、自分自身が突然の「傷つき」を食らわない為に、うまくネットと付き合うということは至極当然な事だと思います。

世の中の流れとは裏腹に

「誰かと一緒」を好む日本人が多い一方で、世の中の流れは変わってきていて、マイノリティや多様性を受け入れようという価値観が広まりつつあります。誰を好きになってもいいし、どんなことを職にしても良い。何が正解でもないし、学歴不問も大切にされ始め、それよりも「自分がどう動けるか」「考え続けられるか」が大事とされてきています。外国ではもっと前から大切にされてきたことですが、日本ではやっと注目され始めてきた、という感じがします。

しかし、前述したように、日本は島国なので、「移民がすぐそこにいる」時代を長く過ごしてきていません。

私が受験生を見ていた時に、ある学校で出された入試問題が印象深く残っています。「日本における外国人イメージ」というタイトルで、アメリカ系の人たちの写真を並べ、「ネット上のフリー画像サイトで、”外国人”と検索し、表示された上位5つの画像」として資料を出し(ほかの資料もあり)、なぜ外国人労働者が増加したのかを記述しなさい、という問題。

私たちはコンビニエンスストアで、毎日のようにアジア系の外国人の方にレジを打って貰っているのに、いざ「外国人」と聞くと、米国系の人たちばかりを想像してしまう、というもの。(実際、外国人の方からすると、コンビニで働ける人は語学も堪能でマルチに仕事が出来るのですごいと言われているそう。確かに。)

つまり何が言いたいかというと、これだけアジア系の人たちと生活を共にしているのに私たちはそのことに関心をあまり持っていない・・・。

多様性を受け入れるのには、実際にはすごく時間がかかるということ。

だから、本音と建て前は、表裏一体のようにつきまとってくる。

多様性が認められつつある世の中の流れがある一方で、Twitterの普及によって、自分に沿った部分は認め、自分に沿っていない部分は排除する、ということが遠慮なく行われるようになってしまいました。

しかし、正論をそこで振りかざしても、渦中の人間には届かないと思うのです。これはTwitterだけでなく、直接の会話でも同じ。

簡単な例でいうと、「今日のパフェ〇〇カロリーもあった。。痩せたいのに」という人に対して、「カロリーより糖質を気にしたほうがいいよ」や、「痩せたいならパフェなんか食べるなよ」という謎のアドバイス。

不妊治療の例で行くと、「高齢になってしまったけれど、子供を産みたい」という人に対して、「自業自得。生まれてくる子供のことを考えて」

などなど。「自分の持っている知識を伝え、相手に理解して貰いたい」という気持ちは分かるのですが、いくら正論を振りかざしても、論点がずれているのです。立場が違うので、観点が違うのですね。増してや、Twitterなどの相手の背景が分からないSNSなら尚更。

男女の場合でもよくある話ですね。女性は同調して欲しいだけなのに…云々。私も夫に対して何度も思ったことがあります。解決法は求めていないと。まぁ、家族間なので、多少の正論は必要だと思いますが。

しかし直接的な危険を伴う場合ではこれは違うと思います。
相手にとって明らかに危険が迫っている場では、止めることができなければ、相手がただ傷ついてしまうのを黙って見ているだけの人になってしまいます。罪を犯した場合なども同じでしょうか。

また、発言力のある政治家に対してもこの限りでないと思います。国民の声を届けることは大切なことだと思うからです。

でも個人間でのやりとりにおいて、相手の思考にまで言及するのはどうなのか、と思うのです。

もちろん自分の選択が常に正解なのか、吟味するうえで情報を収集することはとても大事な事です。しかし人の職業や、誇りを持っていることや、大切にしていること、その選択をした事に対して、正論を振りかざし、あーだのこーだのいう事は違うと思います。自分の価値観で、人が考えて選択したことにとやかく言わない。失敗しても、そこから学ぶことだって沢山ありますからね。

アドバイスは、時に人を傷つける。

ましてや、相手がそれを望んでない時は尚更。

人生は、先が読めなくて、何もかも見越すことはできないから。

何か思うことがあったのなら、なんでもかんでも伝えるのではなく、

まず、「相手は何かを求めているか?」を考えてみる。

そして、何も求めていないな、と分かれば、これはただの呟きだな~ぐらいに留めて、自分の心の中で呟く。ということが必要かもしれない、と思いました。

かく言う私も、ちょっと前までは自分の気持ちを全てネットに吐露していたことがあって、そのせいで友達が減ったなぁと今でも思っています。うまくネットリテラシーと自分の感情と、付き合っていきたいですね。今はそう思います。




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