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みずの記憶

あのとき あの森で 
まぶしくまっさらな雪だった
冬眠からめざめた子キツネが 小さな足跡をつけていった
今朝はじめて鉄砲を手にした猟師が 足跡を追っていった
国境をまたぐ森には おびただしい地雷が埋まっていた
 
あのとき あの島で 
土の匂いをまとったサイクロンだった
収穫前の熟れたパパイヤは みな地面に叩きつけられ
雨あがりの朝 黄緑の果肉に蟻がむらがっていた
夏が終わる頃 農家の長男が少年兵となって島を出ていった
 
あのとき あの町で
古井戸の底に湧くひんやりとした地下水だった
空襲警報のサイレンから間もなく
見上げていた四角い夜空が 花火よりも明るくなって
火のついた母親が 子どもを抱いたまま落ちてきた
 
海になった
川になった
堀になった
 
いま 
マンションの浄水器でカルキを抜かれ
透明なガラスの花瓶をみたす水道水になった
生けられるのは 菊
白菊、黄菊、小菊、雛菊
水揚げがいいから 
すぐに茎に吸いあげられるだろう  
幾日かすると
菊の葉脈にとどまったまま
昨年のカレンダーに包まれ棄てられ
遠い町で跡形もなく焼き尽くされるだろう
 
やっとおわる 
ずっとずっと 苦しかったよ

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