沸点
あるとき、“何か”が心に宿る。
それが一体何なのか心中を巡ってみても、行き先の見えない内面の何処に引き込まれてしまうかあるいはそうなる前に考えることを諦めてしまう。そしてその大方は、Instagramの更新されたストーリーを見終えると同時に消沈する。
一方である時、どこからか温かみのある光のようなものが差し込んでくる時がある。
“何か”の正体を言語化できたわけでも、誰かと共有できた試しもない、何なら先程の光線を実際に目で見たわけでもない。
それでも、光としか言いようがない”何か”が宿ることがある。
見たことないけど、実感値として。
悲しみの秘儀
「希望、情愛、信頼、慰め、励まし、癒し、どれも生きていく上ではなくてはならないものだ。いずれも見ることもできなければ、手で触れることもできない。とはいえ、見えないことと、ないことは違う。見えないが存在する、そうしたものが、私たちの人生を底から支えているらしい。
内なる詩人はこう語る。見えないから不確かなのではない。見えないからこそ、いっそう確かなのだ。」
(めちゃくちゃ良い…)
”何か”は内なる自分をぐるぐるしながら、”考える”ことを促してくれる。正しいとか間違っているとかそんなことはほとんどなくて、温かくてそれでいて痛烈な光は、よりいっそう確かなる何かが人生を導いてくれるだろうという予感すら、示唆する。
翻って現実世界では、人の命を救うことのできる力も、称賛されるような華やかしい実績も、あるいはビジョンのような、そんな崇高なものは持ち合わせていない。
それが、現状で。
おそらく、持とうとして持てるものでもなくて。
自然と浮かび上がってきた時にモノにできる自分であれているのかどうか思うんですよね。
できないことばかりに意識が向いてしまうこともあるけれど、そんな瞬間のために、日々淡々と。と思ったわけです
…
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