我々は考えていない。
客観的な真理なるものが人間を支配している。
誰にでも分かるということが、至上の価値とされている。
我々は考えることをやめ、納得することだけを始めた。
論破することは心地いい。しかし、相手から考えるということを奪う。
忘れてはならない。根拠にも根拠があり、そして意味がある。
分かりやすい真理なるものによって、誰かが苦しんではいないだろうか。
その真理は、何者かの犠牲の上に成り立ってはいないだろうか。
実際、我々は繰り返してしまう。
考えることが出来なければ。
元来、真理とは自己の鍛錬と変容を要求するものだ。
何の努力もせず、ただ伝聞のみで広まるそれは真理だろうか。
答えは、一側面でしかない。それで終わりではない。
我々は、考えなければならない。
しかし、予期してはならない。
予期は、思考停止である。
物事を、それとして受け取る自分を用意しなければならない。
それは、考えるということだ。
だが、この散文を読み、納得してはならない。
この散文は何も要求していない。
この散文は真理ではない。
これはあくまでも戒めであり、哲学である。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?