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「居る」と「待つ」

ダンサーのための表現力セミナー、というものに行ったことがあります。バレエのレッスンに行くたびに怪我が増えていた時期があり、仕方がないのでレッスンの代わりにそれっぽいものを受講していたのです。

先生は、表現力は集中力だ、と言っていました。そのセミナーでは「とてもくさくてきもちがわるいものを触ってしまったときのリアクションを、スローモーションでやってみる」というようなワークをやりました。やってみればわかるのですが、確かに集中しないとこれはできないのです。

「刺激→反応→行動」みたいな感じのサイクルが高速で回っているイメージ。それについていくのに必死で、他のことは考えられないです。動きがスローであればあるほど、コマ切れの精度を高めないとできないのですね。

演じるというのは想像力でやるんだと漠然と思っていたのですが、それが必要なのは最初の瞬間だけです。「くさいし、きもちわるい」という感覚と感情だけは自分で想像して作り出すのですが、そのあとは「今ここで何が起こっているかを観察する」という感じが強かったです。

そう言えば、英国ロイヤル・バレエ団(世界最高峰のバレエ団で、演劇性の高い作品を得意とする。熊川哲也の古巣)のサラ・ラム(だったと思う)が、ジュリエットを踊ったときのインタビューでこんなことを話していました。最初に舞台に出る前に「あの扉を開けたら乳母がいる。この人形で一緒に遊ぼう」ということを思うだけで、あとは踊るだけである。演技をしようとは考えていない。そのときそのときにジュリエットとしての感情が湧いてきて、私は自然にしているだけ、と。少しわかる気がします。

表現力セミナーの先生によれば、芝居の言葉に「居る」というのがあるそうなのですが、それこそがこの集中力なのだそうです。役になりきったまま舞台上に存在していることを指す言葉で、集中が切れると素の自分が出てしまう、ということのようです。

話は変わりますが、私は「気分の落ち込みが長期に渡り、社会生活に支障が出る」ということを長年の悩みとしてきました。要するに鬱ですね。鬱に陥ったら、もう悪あがきせずに明けるのを待っているしかないのですが、「居る」の集中力がこのときの感じに似ているんです。

数学を解いているときとか絵を描いているときとかみたいにぐぐっと集中するのではなく、淡々と集中する感じ。でも、ぼーっとしているのではない感じ。うっかりすると鬱の気分に取り込まれてしまうので、慎重にそこを避ける感じ。それが、「素に戻らないようにする」感じに似ていたんです。

それで思ったのですが、演じるということと素の自分を生きるということがここでは対比されるものになっているわけですが、果たしてそこに違いはあるのだろうか。目を凝らして耳を澄ませて今ここで起きていることをしっかり観察し、自分がどう反応し動くかをじっと待つこと以外、やりようがないのではないか。うーん、うまく言えません。たぶん禅にも通じる話だと思うのですが。

楽しく踊って楽しく生きていきたいですね。要するにそれだけです。

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