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象徴としての蒙古タンメン

蒙古タンメンと言ってもこれである。セブンイレブンで売っている、蓋を開けてカップにお湯を入れて、5分でできる蒙古タンメンである。

5分なのである。私はカップ麺のことは詳しくないが、日清のカップヌードルは確か3分だった。5分は長いのである。経験上、これはしっかり5分待ったほうがいい。4分30秒くらいで蓋を開けると、麺がなんとなくぽきぽきしているのである。

さて、私は蒙古タンメンが好きである。蒙古タンメンと言ってもカップ麺限定だ。カップ麺の蒙古タンメンが好きなのである。カップ麺ではない蒙古タンメンも好きだが、カップ麺の蒙古タンメンは好きを超えた好きである。いや、もはや好きと意識することもない。必要だ。

いや、必要というのも少し違うかもしれない。これは象徴なのだ。今はこれが蒙古タンメンだが、もしかしたら蒙古タンメンではなかったかもしれない。たまたま蒙古タンメンだったのだ。だが、一度蒙古タンメンになってしまったら、それを変更することはとても難しい。だから今となっては、これは蒙古タンメンでなければならない。

蒙古タンメンは何の象徴なのだろうか。創造のための破壊だ。蒙古タンメンは辛い。とても辛い。胃に穴が開きそうに辛い。だいたい私は、辛いものが得意ではないのだ。辛いものはだいたい美味しいが、胃への衝撃が強いのでできるだけ避けて生きている。他に避けているのは、生クリームと生魚と牛肉だ。これは経験上胃に悪い。

創造のための破壊とは何か。一旦チャラにすることである。生活していく中で、問題が積み重なっていく。これは自然の摂理である。エントロピー増大の法則である。知らんけど。人は、積み重なった問題をひとつひとつ取り上げて吟味し、整理したり対処したり棚上げしたりする活動をがんばっていると、いつの間にか能力を超えてしまい、迷ったり悩み苦しんだり死にたくなったりするのである。いや、他の人のことは知らないが、私はそうなのである。

やすもう、と人は言うのである。疲れたらやすもう、と。やすめるくらいなら苦労はしない。ふと気がついたら死にたくなっている人間なのだ。やすむなどという、まどろっこしいことをしている暇はない。もっとドラマティックに生きていたいのだ。いや、私は平穏を求めている。求めているが、ドラスティックに希求しているのである。なまぬるい平穏ではない。宇宙の真理を探究しているのだ。

宇宙の真理を探究していると、たくさん本を読む羽目になる。その本がいちいちよく理解できないのである。結局のところ、私なんかに宇宙の真理を探究する資格はないのである。どんなに賢い人間でも宇宙の真理に到達することはできない、という話もある。これも本で読んだことだが、本当だろうか。私にはよくわからない。

だがそんな話はどうでもいい。蒙古タンメンである。創造のための破壊だ。私は生きていかなればならない。これが真理だ。今ここにあるものを破壊し、新しく生きていく。一回死んで、生まれ変わる。そのための蒙古タンメンだ。蒙古タンメンを食べれば、あら不思議。昨日までの私はもういない。ぐっすり眠って明日になれば、新しい私がいる。胃痛とともに。その痛みは、まぎれもなく生きている証だ。生きているし、生きていたいし、生きていかなればならないのだ。

蒙古タンメンが好きだ。私は生きていたいのだから。

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