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私の育ち① ~こんな親から生まれた

人生はどこまで行っても育ちがある。成功も失敗も含めて
これは、晩年の父が「生涯青春」と91歳まで分厚い洋書を
ひたすら読み、グローバル社会について、英語について、飽くなき探求心を持ち、デイサービスに通いながらも生真面目に生きてくれた姿を間近で見て思うこと。95歳で霊山に旅立った。
しかし晩年になるまでの父は吞んだくれのとんでもなく迷惑な父だった。その話はまた今度。

母は自分本位の父を結婚以来ずっと支え’自分’を持つ余裕すらなかった。
学がなかったからかもしれない。
教訓めいた言葉を聞いたこともない。
ただ「明日は明日の風が吹く」と言って耐えていたんだと思う。
電球一つ変えない父に代わって、なんでも母がやっていた。

私は中学の反抗期(父に対する憎しみが母に向けられていた。ごめんなさい)に母にお尻を叩かれたこと以外、母に怒られたことがない。
愛情深い優しい母だった
そんな母が「勉強しときよ。私みたいになるからね」と卑下して言う時が
嫌だった。専業主婦として完璧だったけど、経済力があれば離婚したかったのだ。
父は「学がないからダメなんだ」と母を人前でもなじる性格だった。最悪。
父が逝き、ようやく母の時間が持てる時には既に91歳。足が悪く旅行もできなくなったいた。そして一年も経たず父の元へ旅立った。

町内会を20年以上勤め、専業主婦としてほぼ習い事もせず献身するためだけに生まれてきたのか。
亡くなって思い出すにつれ母の偉大さが分かる。
母なしには父は存在できなかった。生前は思わなかったが、少しでも近づけるように成長したい。
母が好きだった葉ボタンは私も冬には欠かさず植えている。

冷蔵庫には「大きな耳を持つぞうさん」というかわいい教訓めいた紙が貼られていた。それだけ。判断をくださないから、自然と話ができた母だった。役立つアドバイスもなかったけれど。。(笑)
私の母っぷりとは大違いだ。
書きながら 「ありがとう」 としか言えないことに気付く。
自分を使い切った挙句、介護もさせてくれず(介護で苦しんでる方、ごめんなさい)、三日間 眠い眠いと言って亡くなってしまった。
心の準備も整理もつかなかったけど、私もそんな風な最期がいい。

#両親  

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