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体温の無い愛情 序幕

猫と仮面では、かぶることに意味の違いはあるだろうか。

どちらも角をたたせないようにするためのものではあるが、愛らしい風貌の猫と、無機質な仮面とでは、少しタイプが違うように感じる。

自分は猫と仮面、どちらを被っているのだろうかと考えながら、田崎幸一郎は同僚の話に相槌を打っていた。

「やっぱ幸は凄いぜ。営業成績、3位以下に落ちたことないんじゃないか?」

赤い顔をして、必要以上に大きな声で隣の男が言った。細身で撫で肩、童顔であるその男は、幸一郎の同期である柳田喜助である。32歳、老化が顔に出はじめる年齢であるが、女性顔負けの肌と髪、そして大きな瞳で、10歳は下に見られることが多い。本人はそれが不服であり、わざと髭を整えて蓄えているのだが、それがまた妙に愛らしさを演出してしまっていた。

「いつも、ただ笑っているだけだ。何の技術もない。」

残っているビールを飲み干して幸一郎は言った。本音と嘘が混じっていた。

営業成績に関して、他人のほしい言葉を察する技術が自分にはあると、幸一郎は思っていた。経験則から、喜ばれるであろう言葉をひとつふたつこぼせば、人はすぐ彼のことを好きになった。

短髪の黒髪に、僅かに垂れた目元。長く濃い睫毛に、涙ぼくろ。薄い唇、白い肌。彼の容姿は美しいと言って過分ないものであった。

自分の営業成績について、容姿のおかげだと思う反面、察する技術のおかげだと思いたい自分がいた。だがその技術に対しても、大したものだとは思えず、毎日の気分はおおよそが曇っていた。

「褒めてんだから喜べや。お前がそんな浮かない顔しててもカッコイイだけでむかつくんだよ。」

喜助が何故か嬉しそうな顔をして笑った。そんなことを言う彼もまた高レベルのルックスの持ち主であるのに、嫌な感じがしないのが彼の魅力であった。幸一郎は、いわゆる不細工な人の前だと居心地の悪さを感じることが多く、喜助の容姿の美しさと、その見た目に反した雑な物言いを好んでいた。

「綺麗で苦労することだってある」

幸一郎がつまらなそうに言うと、喜助は「うわ、まじでムカつく」と言ってまた嬉しそうに言って笑った。

店を出ることになったのは、営業先からの電話のためだった。深夜と言えるほど夜はふけていなかったが、十分非常識と言える時間帯であった。電話をとった幸一郎の顔が変わったのを見て、喜助は今度は困ったように笑い、片手をひらひらさせた。

外に出ると雨の匂いが鼻を掠めた。濡れたコンクリに提灯の灯りが反射している。

「最近会えてないわね」

電話の向こうで女が言った。少し含みのある口調だ。

ため息が出そうになるのを押さえ、極力自然に返事をした。

「本日うかがったのですが、タイミングが悪く。久しぶりにお顔を拝見したかったのですが。」

「先週もそう言ってたじゃない。避けてるのかしら?」

「そんな。営業先で美女に会えるのだから、避ける理由がありません。」

「また、口がうまいんだから。美女なんて言われ飽きてるけど、田崎君に言われると嬉しいわね。」

「お電話いただいたのは、先日の納品についてでしょうか?」

「いえ、なんの不備もなかったわ。ただ、ひとつ不明な点があって・・・」

長くなりそうだなと思い、戻って喜助の肩を叩いて、ジェスチャーで謝罪した。3千円を置いて店を出た。

幸一郎はヘアウィッグやコスメ等の美容系会社の営業課に勤務している。彼自身、特別な努力や工夫をしているつもりはなく、その恵まれた容姿から、相手の望んでいるであろう言葉をひとつふたつ口から漏らすだけで、自然と成績は上がっていった。

そのあまりの順調さに彼は不自然さを覚えていた。容姿が美しいというだけで、これほど評価されるものかと。

当然のようにその成績には陰口もついて回った。やはり同性の社員からは特に声が多く、容姿だけの存在であることを揶揄した「マネキン」というあだ名が通用しているくらいであった。

それもしょうがないと彼は感じていた。事実、自分にはアイデンティティと言えるものが、その顔面しかなかったからだ。

そうした現実を嗤うかのように、このような電話がまれに入る。美容関連の会社には女性が多く、中にはすぐに彼を気に入り、特に話も聞かれずに営業が成立することもあった。そうして浮いた時間はプライベートなことを聞くことにあてられ、仕事の話と称して、彼に会う算段の電話が時折かかってくるのであった。

そして彼女達は、幸一郎に特筆すべき能力がないこともわかっていた。幾ら立場が上だからと言って、普通であればこんな夜中に電話をかけてくることはない。ましてや、緊急の案件でもないもので。

このような暴挙が成立するのは、これを無下にした場合、彼にリカバリーする力は無いと見抜いているからであった。彼女達は、常に彼にその容姿を武器にすることを強要していた。

ただ美しい男を追いかける女のようでいて、その実、皆が彼で遊んでいるだけなのだった。

電話を切る頃には駅についていた。電車に乗ってシートに座ると、自分が酷く疲れていることに気づいた。

先ほどまで気にせずに立っていたにも関わらず、今着ているスーツが、風呂釜いっぱいのお湯を吸い込んだように感じる。自宅までは2駅ほどしか離れていないのに、大丈夫なのか。とてもすぐに立ち上がれるとは思えなかった。このまま立ち上がれずに、どこかへいってしまうかもしれない。そうしたら、どうなるだろう。きっと携帯がパンクするくらいの着信が入るのだろう。最初は会社から、次に家族、先ほどのような女達、友人からもかかってくるかもしれない。

あぁ、その時は携帯を捨ててしまおう。そう思ったところで呆気なく目的の駅についた。自分はシートの一部になったのではないかと感じていたが、そんなことは全くなかった。幸一郎はすくっと立ち上がって歩きだした。一瞬、ドアの窓に自分の姿が映った。綺麗な顔をした無表情のマネキンは、すぐに電車の両側に吸い込まれて消えた。


柳田喜助は客の少なくなった居酒屋で一人酒を飲み続けていた。友人の残していった鳥の唐揚げをつまみながら、何杯目かのウイスキーハイボールを楽しんでいた。彼は酒好きではあったが、酒の味を楽しむタイプではなかったので、飲み飽きしないハイボールを好んで飲んでいた。ようは酔えればいいのだ。薄かろうが濃かろうが、彼は気にしなかった。

油を酒で洗いながら、彼は幸一郎のことを考えていた。あの無気力で、無興味な男のことを。

グラスを煽って、喉をならす。先程、あの男が自分の美しさを嘆いていた姿が思い出されて、喜助は一人笑みを押さえられずにいた。

あれは自分と真逆の男だ。彼はそう思っていた。

喜助は、自分の容姿に対して純粋に自信があった。幼少の頃から可愛いや綺麗などと称賛され続けた彼は、その甘さに毒されていた。常に人から好かれ、称賛されることを望み生きてきた喜助は、どう振る舞えば愛され、どういう条件で嫌われるかということを、感覚と経験で理解していた。

今まで付き合ってきた人間も、多少の違いはあっても人から好かれたいという望みは持っているように見えた。それが嫌われると都合が悪いという現実的な理由だとしても、似たようなものだ。嫌われないためには、好かれてしまったほうが早い。喜助はそう考えていたし、そうできるだけの技術があった。

しかし、幸一郎は違った。あの男は、好かれるということに興味がないように見えた。いつも何処か別の世界に生きているような顔をして、誰に対しても心を許していないように見えた。それをクールだとか、ミステリアスだとか言ってうっとりしている連中も多い。

だが、喜助にはそれは正確ではないと感じていた。あの男は、他人に興味がないのだ。人との付き合いが面倒とか、そういうことではなく、好かれようが嫌われようが、どうでもいいと思っているように見えた。いや、どうでもいいとさえ思っていない。他人が頭の外にあるのではと思う瞬間が時々あった。彼の空虚さが、美しい顔に浮き上がって、妙な不気味さを漂わせている瞬間が。

そんな男が、自分に対しては好感を持っているような顔をしたり、素のような表情を見せるものだから、彼にとって自分は特別なのだと思うようになっていった。普段以上に、どんな振る舞いが彼にとって好ましいかを探すようになった。自分の前だけで出す人間らしさを見るたび、喜助は甘い喜びを覚えるのだった。

ー恋する乙女かよ。

喜助はおかしくなって自嘲気味に笑った。またあいつを酒に付き合わせよう。そう決めると、残ったハイボールを飲み干した。もう一杯注文したところで、向こうの方から女二人が近づいてくるのが見えた。お兄さん一人?とでも誘ってくるのだろう。

幸一郎のほうが綺麗だな、と思いながら、ゆっくりと心のなかで仮面をつけるのであった。

夢の中で、誰か愛しい人と過ごしていた。お城のような家の中、5人は寝れるのではという大きなベッドの上で、二人には暖かな時間が流れていた。愛しい人は、自分のことをずっと肯定してくれていた。こちらが話す悩みだけでなく、まだ話してないことについてまで言及し、受け入れ、肯定してくれていた。天使に抱かれているような心地になる。柔らかな眠気と共に目を閉じると、どこからか鳥の鳴き声が聞こえてきた。

瞼の向こうに光の気配を感じて、幸一郎は目覚めた。

時刻は7時半を過ぎた頃だった。顔を洗おうと思ったが、体のべたつきが気になって、シャワーを浴びようと思い直した。服を脱いで、適温の湯を白い肌に流すと、心から気持ちいいと感じる。

幸一郎は汗をかくということを嫌っていた。自分に対して感じる人間らしさというものが希薄であるのに、汗をかいて油が肌にまとわりつくのが、なにか現実を突きつけられているようで心持ちが悪くなるのだ。湯を浴びてそれをリセットすることで、彼はとても安心できた。入浴は彼の数少ない好きなことのひとつであった。

リビングに戻ってテレビをつけると、地震のニュースが流れていた。それなりに大規模のものだったらしく、死者は何名だとか、救出状況がどうだとかキャスターが話している。別段興味もなかったが、見るものも無いのでそれを眺めながら水を飲むことにした。

幸一郎は朝食をとる習慣を持っているが、それは仕事をするにあたって都合が良いからそうしてるのであって、休日はいつも水をのむだけですましていた。もっと言えば、昼食も意識をしなければ抜いてしまうほどであった。

もっと寝ていたいからとか、そういう理由ではなく、ただ単純に食事というものに興味が薄いのだ。

テレビには遺族が泣いている映像が映っている。椅子に姿勢よく腰掛け、水を飲みながら幸一郎は考えた。

あの人達は本気で泣いているのだろうか。

子が死ねば養わずにすむし、親が死ねば介護せずにすむ。災害での事故死なんて、とても体のいい条件ではないか。幸一郎には、テレビの向こうの彼らが、感情の激流に自ら船を渡しているようにしか見えなかった。それはまるでアトラクションのようだと思った。

コップ一杯の水を飲み干して、テレビの電源を切った。いずれにしろ、自分に関係のない話だ。

そんなことよりも大事なことがあった。昨日の電話の女と会う予定があるのだ。午後から駅前のビルの中にあるカフェで話したいとのことだった。現在開発中のシャンプーの成分について聞きたいと言っていたが、内容的にさして珍しい成分は配合されていない。建前だろう。

どういう風に遊ばれるべきだろう、と考えながら、支度を始めるのだった。


カフェには随分早く着いた。予定の時刻までは2時間近く空いている。たまたまではなく、あえて早めにやってきた。

幸一郎には趣味と言える行動がひとつだけあった。それは、人を高い場所から見下ろすというものである。自分の指先ほどしか無い人々が無数に往来するのを見ていると、まるでそこが工場のように思えた。現れては消えていく部品のような彼等を眺めていると、妙に親近感が沸いて、心地がいいのだ。

窓際の席に座り、珈琲を注文して、何時も通りに街を見下ろす。

無機質な、生活の匂いのしない風景。彼等は確実に暮らしているのに、この瞬間、幸一郎のなかではベルトコンベアーに流れていくネジや歯車と同じものであった。この工場は何を作っているのだろう、と考えることがあった。それは時に車であったり、ロボットであったりした。

空想の中の油の匂いに、上品な香ばしい匂いが混じる。店員が珈琲を運んできたのだ。

そっとテーブルに置かれたそれを、ゆっくりと一口飲む。

鼻から入った香りが口と食道を通って、再び鼻から抜けてゆく。この瞬間、彼は自分を人間だと認識する。良い香り、良い心地。それが自分の心を少しだけ引っ掻くのを感じる。

「いい日ですね」

突然声が聞こえた。顔を向けると、先程の店員であった。戻っていなかったようだ。

どう返したらいいものか分からず黙っていると、ぺこりと頭を下げて離れていった。向こうから嬉しそうな叫び声が聞こえる。

いい日ってなんだろう、と幸一郎は思った。確かによく晴れている。珈琲はおいしいし、今からの予定が憂鬱なものでなければ、自分にとってもいい日なのかもしれない。しかし、ニュースによれば今日はどこかで大きな地震があって、沢山人が死んだらしい。店内にもテレビがある。あの店員が知らなかったとは考えづらい。それなのにいい日だと言えるのであれば、やはり自分はそれほど逸脱していないのではないかと感じた。

窓を眺めているうちに、やがて天気は曇っていった。雨の気配が見てとれるようになると、これで今日はもういい日ではないのだろうかと思った。そして、向こうから知った女がやってきたことによって、それは確かになった。

「ごめんなさいね。待ったかしら。」

そう言いながら女は椅子に座った。返事は求めてないとでも言うように、すぐに店員を呼んでコーヒーを注文する。

派手なレースが施された薄ピンクのシャツに、明らかに短い真っ赤なタイトスカート。そこから伸びた白い足を見せつけるようにして組むと、彼女は視線を合わせてきた。

「いえ。先ほどきたところですよ。」

そう返事をすると、彼女は面白くなさそうな顔を浮かべて「そういうのはいらないのよ」と言った。彼女はため息ともとれるように鼻で笑って「ずっと前にきてるんでしょ。知ってるんだから。」と続けた。

「気づいてるかもしれないけど、私、待たせるのが好きなのよ。おかしいと思うだろうけど、その姿を見るために早く来るの。」

幸一郎は少し驚いてしまっていた。確かに知ってはいたが、そのために早く来るという理屈は、彼女の高慢さに合致しないように思ったからだ。単純に言って、意外であった。

「失礼しました。確かにしばらく前からおりました。男が遅れたらいけないかと思いまして。でも、心待ちにしておりましたよ。」

微笑んでそう返事をした。幸一郎は無難な逃げ道を探していた。自分が心待ちにしていたと言えば女性は大抵喜ぶものだ。そして、待たせるのが好きという趣味に合うと思った。

女は今度はしっかりとしたため息をついた。

「それで騙されると思っているの?嘘には本音を混ぜるものよ。あなたのそれはなんの重みもないわ。あのね、さっきも言ったけど、私は待っている男を見るのが好きなのよ。私という女を求めて、何度も時計をみたり、店内をきょろきょろとする。それを見るのが楽しいの。」

彼女は怒っているようで、少し早口に言った。しかし、そのトーンは冷静なものであった。

「心待ちにしてたって言ったわね。」

もう逃げ道は塞がれていることが薄々理解できていた。彼は「はい」という他は無かった。事実であったからだ。

「これもさっき言ったけど、そういう人間はそわそわするものなのよ。なのに、あなたは窓のほうを向いたっきりぼーっとして。私に興味がないのがバレバレ。はっきり言って、私はいい女よ。それに全く興味もないなんて。あなた、性欲とかないの?休日に誘われる意味、分かってないわけではないわよね?」

自らいい女だと言い切る姿を見て、確かにそうなのかもしれないと思った。性欲と言われると首をかしげたくなる気持ちもあった。何度か告白されたことはあったが、はたして付き合ったという経験はなく、当然性交渉も同様であった。

そういえば自慰行為もしたことが無い。過去に、母親が直接手解きをしてきた記憶があるが、気持ち悪さを感じたことを思い出した。

幸一郎は目の前の「いい女」をじっと見てみた。

確かに美しいと言える造形であった。性格に似合わぬ薄化粧であるのに、透き通るような肌をしている。唯一、下まぶたを中心に濃いめに入れられた菫色のアイシャドウが、狐のような目によく合っていた。シャツの胸元は開かれ、白い乳房の谷間が見せつけるようにしてそこにある。多くの男はこれに触れたいと思うののだろうか。

「そんな風に胸を見つられたのは初めてよ。」

女は少しおかしそうであった。

「あてつけに言った言葉が当たってたなんてね。あ、もしかしてゲイ?」

この質問は何度もされたことがあった。どうやら多くの人は、美しい容姿に異性の気配を感じないと、同姓愛者だと思うことが多いようであった。

「それならそのほうがよかったんだけど、どうやらそうでもなさそうね。こんな風に言って嫌な顔しないんだもの。」

しかし、ここまで冷静に他人に分析されるのは久しぶりであった。大抵は決めつけられてから、返事を待たずに去っていくものであった。

「まぁいいわ。あなたがつまらない人だってことだけはよく分かったし。それで今日は満足。でも、シャンプーの話はなしね。商品に興味があったわけじゃないもの。あなた、営業向いてないわよ。」

女は席をたった。白い足を見せつけるようにしながらゆっくりと歩いていった。確かに満足らしい。

周りの客の視線が、見方こそ違えど一様に彼女に集まっていくのをみた。工場の部品であるはずの彼等が、人間になってしまった。僅かばかりの寂しさと、大きな疲れを感じてため息をつくと、携帯がなった。見れば、喜助からの酒の誘いだ。そのメールをみた時、少し嬉しさを覚えている自分がいることが、幸一郎には複雑であった。

暗い店であった。カウンターのみが奥に長く続いている。照明といえば、等間隔でランプが数個置かれているのみであった。小さく天窓がついており、運が良ければ月の光が入るそうだ。

「顔を見られたくない時ってないか?」

グラスに入ったウイスキーを揺らしながら喜助が言った。

「人からみた自分の価値を捨てたい時とかさ。めんどくせーってなんの。」

長細いバーの店内に音楽は流れていなかった。代わりに、隣にあるジャズバーからライブの音が小さく漏れてくるのが聞こえた。

幸一郎は少し考えて、共感の言葉を選んだ。

「・・・あるかもしれない。」

グラスを置く音が小さく響く。喜助は「本当かよ」と言って笑った。

「意外だわ。お前は、そういう評価とか気にしてないと思ってた。」

喜助は嬉しそうに言って、ずっと揺らしているだけだったウイスキーを一口飲むと、顔をしかめた後また笑顔に戻った。

「やっぱあんま好きじゃないけど、つまみがよきゃ悪くないな。」

自分の言葉のなにがそれほどいい味だったのかは分からないが、喜助は喜んでいるようだった。それを見ていると、幸一郎も不思議と悪い気分ではなかった。

同じウイスキーが入ったグラスを傾けると、強い刺激と同時に、焦がした蜜のような香りが鼻に抜けた。つまみがどうかは知らないが、確かに悪くないと思った。

「どういう時だ?」

喜助は幸一郎を目を見て聞いた。

「お前はどんな時に、自分の顔を捨てたくなるんだ?」

どこか真剣な眼差しに少し驚きながらも、過去の自分を回想してみた。しかしあまりそういった覚えはなかった。何故さきほど共感を示したのか考えると、昼間の出来事が思い出された。

「このあいだの飲み屋で、電話があっただろ。」

「あぁ。どうせ営業先だろ?」

「そう。誘われて、昼間会っていたんだ。これで話が決まると思ってたんだが、結局、お前はつまらないと言われて、失敗してしまった。」

話していて、やはり嫌な出来事だったのだと思った。技術だと思っていたものが、真っ向から否定された。そう、自分は失敗したのだと、幸一郎は今になって実感していた。

隣の店から流れてくる曲が変わった。軽快であった音はゆったりとしたものになり、心なしか店内もさらに暗くなったようだった。そのなかで、目の前の美しい顔ははっきりと映っている。

男の語る言葉に垣間見える弱さを感じるたび、心は甘美に震える。笑みがこぼれそうになるのを抑えながら、喜助は幸一郎の話をきいていた。

「相手がほしいと思ってる言葉をかける。そうしてきたつもりだったんだが、そうじゃなかったんだろうか。やはり、俺はこの顔だけの存在なんじゃないかって思えてきたんだ。」

喜助の酒をのむ手が止まった。

この男は他人に興味がないと思っていたが、そんな風に考えていたのか。驚くと同時に、おかしさがこみあげる。

幸一郎の普段の接し方といったら、それはつまらないものだ。言葉だけは親切丁寧だが、その表情はほとんど変わらない。マネキンという嘲笑は正直的はずれなものではないのだ。

それなのに常に営業成績がトップであるのは、やはりその顔の美しさのために他ならない。そしてその口ぶりから、それを後ろ向きに考えていることがわかった。

なんて弱く、なんて滑稽なのだろう。きっと次に自分が言う言葉は、このマネキンの心に届くだろう。

ーあぁ、この男はいま自分の手のひらの上にある。

そう感じた瞬間、心に巣くっていた甘い毒が、酒と共に体をめぐっていくのを感じた。

ずっと冷笑してきた幸一郎に対するこの感情を、認めざるを得なかった。彼を自分のものにしたい。そう確かに自覚してしまった。

喜助はまたウイスキーを一口のむと、どんな言葉を投げるべきか考えた。

その弱さを包みこんだり、支えるような言葉。つまりは、心の隙間に潜り込む言葉をかけ、唯一の理解者という特別となるか。

或いは、その弱さをえぐり、陥れるような言葉。つまりは、心の土台を壊すような言葉をかけ、叩きのめした後に手をさしのべるか。

喜助は後者がいいと考えた。無感動なこの男に、理解者という餌はご馳走にはなり得ないように思えたからだ。

いや、それだけではない。その弱さを無理矢理露出させた時に、幸一郎がどんな表情を浮かべるのか、見てみたいという欲があった。

「みんな、俺の顔しか見ていない。昔からずっとそうだ。」

グラスを見つめて幸一郎が言った。中はいつの間にか氷だけになっている。

「・・・もう一杯飲むか?」

幸一郎はこちらを見ずに頷いた。老齢のバーテンダーに目配せをすると、彼は小さく手をあげ、新しいグラスを取ることで返事をした。

「俺の顔にみなが群がる。様々な、興味のようなものをしめして。しかしその実、誰も俺を見てはいない。今日、久しぶりにつまらないと言われた。いらない人が群がるくらいなら、捨てたっていいかもしれない。」

珍しく、どこか不安定な声色だった。

「なぁ、柳田。」

この男は声まで美しい。

「お前は、どうして俺を誘うんだ?」

その言葉が滑らかな唇から発せられたのは、バーテンが酒を置いたのとほとんど同時であった。喜助にはその瞬間、時が止まったように感じられた。心の中で研いでいた飴のナイフが、突然自分に向けられたのだ。

「それは」

冷静だった自分は消えていた。好きだからと言ってしまいそうだった。それは喉の下で止まったが、言葉を選ぶ余裕などなかった。

「お前に、興味があるから」

どこかぎこちない言い方になったことが、喜助にはとても恥ずかしく感じられた。ずっと上から幸一郎のことを眺めていたものが、対等であると自覚させられたようで、心が苦しく震えた。 

幸一郎を見ることもできなくなり、少し俯くように喜助もグラスを見つめた。

しばらく沈黙が流れた。店越しに聞こえる甘いジャズは、どこか乾いたように響いていた。 氷は溶けて小さくなっていたが、グラスを口に運べばカラリと綺麗な音をたてる。

「直接興味があると言われたのは初めてだ。」

幸一郎が言った。見ると、珍しく少し嬉しそうな顔をしていた。それは息苦しさにうつむいた喜助の心への、極上のプレゼントだった。

「・・・聞きたいことがあるんだが」

続けて与えられる甘露に表情が緩みそうになるのを、喜助はなんとか抑えていた。この男は聞きたいことがあるのだ。自分に。

「俺は、猫をかぶっているのか、仮面をかぶっているのか。どちらだと思う?」

「・・・そのふたつに違いってあるのか?」

「なんとなく、温度が違う気がする。猫は可愛らしいものだろ。自分では、仮面かと思うんだが」

息苦しさがすぅっと消えていった。喜助は強い高揚感に震えながらも、努めて冷静に言葉を探していた。

これはチャンスだ。この男を砕き、剥き出しの心に触れる絶好のチャンス。少し薄まったウイスキーを飲み干すと、喜助は再び、飴のナイフを取り出した。

「猫ってのは、どっちかと言えば声色じゃないのか。餌がほしい時の甘ったるい声。そんで仮面は表情だろ。パッケージ化された好意を顔に張り付ける。」

「・・・なるほど」

「そうすると、お前はどっちも被っちゃいねぇよ」

そして刃は突き立てられた。

「猫にしたって仮面にしたって、他人との摩擦をなくすためのもんだろ。この社会で生きてくための、みんなが身につけてる道具。幸、お前は声も表情も大抵が変化なしだ。言葉だけ人間らしくしたって、感情がなんにも乗ってないんだよ。きっと、お前はまったく他人に興味がないんだ。さっき誰も俺を見ていないと言ったが、そんなことは当たり前だ。人は人間を好きになる。何があってそうなったのか知らんが、お前はまさしくマネキンだ。お前が本当に好意を得たいなら、人間にならなくちゃいけない。」

喜助はしっかりと幸一郎を見た。美しい目、口、頬。その全てが動揺に波たつのを見た。

自分の研いだナイフが刺さった。その実感が、喜助の心を溶かそうとした。

そして、その熱を込めた言葉で突き刺したナイフも溶けてしまえば、あとは甘い蜜が傷口に溶け込む。そうやって、喜助は幸一郎を縛るつもりだった。

「けれど、俺だけが、お前を人間にすることができる。俺だけが、お前に興味を持っている。阿藤幸一郎。お前が好意を求めているなら、俺だけがそれをお前にやれる。」

幸一郎のグラスを手に取ると、喜助はそれを一口飲んだ。もとの位置に戻すことなく、コースターを自分の前にもってくると、その上にグラスをおいた。

「俺の特別になれ。俺がお前を、教えてやるから。」

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