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ウに点々の、ヴでヘヴン

毎日毎日すきな時間に起きてすきなことだけして、そのことについて何かに残すわけでもなく。そんな日々が来るなんて、やっぱり年をとることは神道なのかもしれない。5時半に起きて雨の中スーツで15分自転車に乗った後、満員電車に乗るわたしも、午前中がほぼ形を成さない今のわたしも、同じ名の同じ生年月日なのである。

ヘヴン/川上未映子を今年も読んだ。たぶん1年に1回は読んでいる。そのくらいにしないと身がもたない。茨木のり子の詩集ではないので、毎日入れてるんじゃ心がもたない。

今回はじめて印象に残ったのは、コジマが太陽の光を直で見るおまじないをするところ。「太陽の光は直でみると危ないでしょう、だから30秒みることができると願いが叶うっていうおまじないがある。今回は見続けられるだけ見続けるから、だから助かって」というような「僕」のためのおまじない。こういうことわたしもしてたなぁと思い出した。道路の白い部分だけを踏んで歩く、家の絨毯のベージュが濃いところだけを踏んでから部屋に入る、鏡の四隅を5周触る、等。

小さい時は今よりもっと、あらゆることが怖くて不安でいつもいつも必ず何か2つくらいのことには怯えて毎日をやっていた。だからどうしても意味がわからないようなおまじないが必要だった。がんじがらめの1日の中でたくさんのおまじないをして、終わりのない不安に向かっていた。

少し大きくなって、歴史の授業で、祈る時に神に息子を捧げることもあったと習った時とても安心した。絨毯のベージュも鏡の四隅もちゃんと意味があると認めてもらえた気がした。

もうその絨毯がどこにあるのかもわからないし、鏡の四隅のことも十数年ぶりに思い出した。通常運転の懐かしいな〜の懐かしいにもいない出来事ということ。その時の祈りは全て通じ、手放しの今がある。

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