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[日記]雨に唄えば/「知ること」の変遷

まだ梅雨なのかと思えば急に真夏が来て
早く秋になれと願っていたら梅雨に逆戻りしたような雨の日の朝。

お盆休み。

やることもないのでモーニングを食べに外に出る。思った以上に雨が降っていたので久々にレインコートに腕を通し長靴を履いた。レインブーツとも雨ガッパとも呼べないお年頃である。

降って沸いたような休日だったので、雨音を聞きながら歩いていたら楽しくなってしまい出勤中と思わしき人々を横目に歌など口ずさんでしまった。小さい頃に進研ゼミか公文のVHSで聞いた英語の挨拶の歌。

延々と
「おはようございます。おはようございます。ご機嫌いかがですか。」
「おはようございます。おはようございます。元気です。あなたはいかが?」
「こんにちは。こんにちは(以下略)」
と、おはようからおやすみまで同じやり取りを繰り返す童謡。
最後の「おやすみなさい。」をどう締めるのかは忘れた。

日課の朝のラジオ番組を聴いていて思い出したと言うか、折に触れて思うものの脳内に仕舞い込んでたことがあることに気がついた。ので、一回書いてみようと思う。

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ある日の昼、目が覚めてリビングに行くとテレビに映っていたのは炎と黒い煙をあげる二棟の高層ビルだった。20年前の秋。たまたま学校を休んでいた。

それはとてもショッキングな映像で、一日中テレビから流れて来る映像や話や文字を追っていた。
それまでに何に関心を持っていたかは忘れたが、その日から徐々に
「なぜ戦争は起こるのだろう。」
「どうしたら争いは無くなるのだろう。」
と思い始めるようになった。とにかく不思議だったので知りたかった。

その気持ちは大学受験の頃まで続いて、その手のことも学べるところへ進学した。
第一志望のところに入れたのだが、それほど真面目な生徒にもなれず、また卒業から年数が経ってしまったので学んだことはほとんど忘れた。

だけど、大学で講義を受けたり自分で調べてまとめて考えているうちに気がついたことが一つある。それは今でも折に触れて思う。

何かを知っても世の中は何も変わらない。

学べば私の知識は増える。新しいことを知るのは楽しい。別々のジャンルの知識が何かの瞬間に繋がった時などは気持ちが良い。私の中の変化はある。

でも、例えば社会の問題点を(当時は国や地域同士の争いを主に知ろうとしていたけど)知って考えたとて、世の中の大きな動きは私の意志とは関係なく生き続けている。

学者や専門家が、それこそ何百年も前から生涯をかけて考えて研究し続けているのに存在し続けている問題もある。彼らが考えても解決しなかったことを、私が考えたとて何になるのだろうと思った。

知ることや考えることは楽しいけど、知って苦しくなることもある。

今年で言うとミャンマーのクーデターがそれだった。なぜあんなことが起きたのか不思議で、毎日ニュース記事や国際機関のレポートを読み漁り、podcastで現地の人のインタビューを聴いたりした。国の歴史も辿ろうとした。

知れば知るほど過去から続いている問題は複雑で現在起きている出来事は残酷で、胸が痛くなってしまい見るのをやめてしまった。

見続けるのは大変だが目を背けるのはとても簡単だった。私が知っても知らなくても物事は動き続けている。

社会に出てからは日々の生活に追われて新しく何かを知ろうとすることをほぼやめてしまった。何も知らなくても生きてはいけることにも気がついた。

ここまでが知ることに対するネガティブな面。

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ここからがポジティブな面。

もう先の方でも書いてしまっているのだが、やはり「知らないことを知ることは楽しい。」

それがどんなに残酷であったり解決が出来なさそうな問題であっても、知識が増えることは人間としての欲求が満たされていると感じる。

「人間は考える葦」

痛みを伴う知識でも、やはり知って行く過程は楽しい。その先で考えることを続けるか止めるかはその時に決めたら良いと思う。ミャンマーの一件がそうだったように。

知ろうとする第一歩を大切にしたい。

社会に出てからの数年間、失っていたそんな気持ちを思い出させてくれたのが1組の漫才コンビだった。

2019年の年末、たまたまテレビをザッピングしてたら行き着いたNHKの「時事ネタ王」と言う番組でこの2人が『GSOMIA』をテーマに漫才をしていた。

当時、テレビでもネットでも幾度となく目にしていた単語で一度だけ意味を調べようとしたが長文を見た瞬間に面倒臭くなって知ることを諦めていたアルファベット6文字。それが、この2人の漫才を見ていたら笑っているうちに何となくの意味が分かってしまった。

初めての感覚。

それまでに教養系バラエティー番組などで、芸人さんが分かりにくい用語や出来事を紹介すると言うのを見たことがあるが、ここまで笑いと知識の提供が一体化しているのは初めて見た。

あくまで“お笑い”なので細かい部分は説明せず言葉の概要を紹介していたのだが、そこが良かった。もっと知りたいと言う気持ちになれて、ニュース記事を読み漁った記憶がある。全く知らなかった単語の概要が分かるだけでニュースが理解できるようになった。

年明けから毎週そのコンビのYouTube生配信を見るようになった。驚くことに毎週、1週間分のニュースを時事漫才として披露していた。今もし続けている。毎週。

第1回目緊急事態宣言のステイホーム期間中も、ZOOMで漫才をしていた。

2021年年明けからの緊急事態宣言中も自宅から漫才を届けていた。

この1年はニュースを見なくても時事漫才のおかげで「先週こんなことがあったんだ…知らなかった。」と思うことが多々ある。(良い加減にニュースを見る習慣をつけろと自分でも思うのだが。)

その中でも気になることがあれば調べたり、そこから日常生活が少しだけ変化したこともある。

正にZOOM配信期間中のこの漫才。レジ袋有料化について。

それまで環境問題に興味がなく「エコバッグ面倒くさい」「全部燃えるゴミで出したら良い」くらいに思っていたのだが、なぜかこの漫才でプラスチックゴミ問題に興味関心を持ちゴミの分別をちゃんとするようになり、無闇矢鱈にプラスチック製品を消費しないようになった。
学校の授業でも無く、テレビの環境特番でも無く、活動家の演説でもなく、1本の漫才が私の意識を変えた。

何かを知っても世の中は何も変わらない。

前の方でこう書いたが、何かを知って行動が変わった。その先に何があるだろうか。

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相変わらず社会の大きなうねりは誰が生み出しているのかは分からないし、大多数が共有している価値観や声が大きい少数が叫んでいることが正しいのか間違っているのかも分からない。

ただ、知ろうとしなければ分からないことすら分からないままだったので、「分からない」「知らない」と思えていることは進歩なのだと思う。(無知の知)

全く知らないことは、それがあるということに気が付けないので知ろうとすることすら出来ない。

だから意外なところに転がっている「知るきっかけ」と言うのはとても大事だと思う。私にとっては時事漫才がそうだった。

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以上が私にとっての「知ること」に対する考え方の変遷。

20年前の911から現在に至るまで、一度減退した知的欲求(好奇心)が復活した話。

三拍子は今月で結成20周年を迎えたらしい。









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