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覚えていたことを覚えている

早くに父を亡くした為か、大人になっても身内から「お父さんのことを覚えている?」と聞かれることがあった。最近はあまりない。

その度に「覚えていたことを覚えている。」と答えていたのだが、この感覚を他にどう表現したら良いのか毎回悩んでいた。

例えば父と母と私とで海に行った記憶がある。私と母は手を繋ぎ、前を父が歩いているという一瞬の映像が思い浮かぶ。
でもその記憶の映像は、当時の私が見たまんまのものではない。
母や親戚に「お父さんのこと何か覚えている?」と聞かれた当時幼稚園児の私が「みんなでうみにいった。」などと答えて、そう言えばそんなことがあったねと周りが話したことや見せられたアルバムの写真を基に脳内で再構築したものだ。

だから私の記憶には音も匂いも感触も温度もない。
そんな思い出もどきが片手で数える程度にはある。

これを周りの人に言ってもどうも分かってくれている様子がなくて(私が説明下手なせいもあるが)、「ちゃんと思い出があって良いね。」などと返されることもあった。

記憶のようで記憶ではないもの、みんなには無いのだろうか…と思っていたら、まさに私が感じていたことについて書かれた文章を見つけた。

“”過去の記憶が想起されると,その記憶は再度「記憶形成」の処理(再符号化)を受け,より強度が増す”

そのような記載に,ふむふむと頷いた,その先に。

"再符号化では,それが起こった時点での「新しい環境」に関する情報が,古い記憶とともに再符号化されうる。"

…なんということでしょう。わたしたちは過去を思い出すとき,思い出されたその記憶は,もはや「かつての記憶そのものではなくなる」可能性があるというのです。”

西野マドカさん「レトロスペクティブ・リコール」


記憶は思い返せば強度が増し、その代わりにかつての記憶そのものではなくなる。正にこれ。

小さい頃からのモヤモヤがちょっと晴れた。

ところでポップしなないでの「救われ升」という曲にこんな歌詞がある。

「昨日も明日も想像に過ぎない」

初めて聞いた時に、明日(未来)は確かに想像しか出来ないけど昨日(過去)は想像ではなく現実じゃない…?と思った。
でも過去の記憶は思い出す度に現実からはかけ離れていく。今この目で見て触れることが出来ず、現時点での環境や情報をもとに思い出すという点では未来を想像するのと変わりないのかもしれない。(そんな話を確か時間に関する本でも読んだ。)

ところで毎回書きたいことを書いた後に文の締めくくりをどうしたら良いか迷うのだが、今回は何にも思い浮かばなかったので馬鹿正直にその旨を記して終わりにしたい。

お金をください。