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【長編小説】異精神の治し方「境界治療」.3

 教室には、また私とリコの二人だけだ。まだ、自分が自分でいる事に驚くと同時に失望している。
「なぜだか分かる?」
 リコが私に質問をしている。もちろん聞こえている。けど、答えが本当に分からない。
「知りません」
「だから、それを知らなくちゃいけない」
「そんなこと言ったって」
 どうしたらいいのだろう。
 オアシスで二人のキスを見た後、私は物質化してしまうのだと思った。私がカオルを好きなら、そうなるべきだった。
 なのに、心は冷め切っていて、それだけだった。
 こうしてリコの顔だって見たくない。なのに、なぜか平気だ。
「ねえ、ニーコ。貴方はカオルのどこが好きなの?」
 好きだったの? と聞きたいんじゃないの?
 もちろん、それを口にする程、余裕はない。
「知らない」
 こう答えるのが精一杯。
 それに、本当に知らなかった。この事実は、あのキスを見てからずっと私の頭に重くのしかかっている。
 知らない。私がなぜカオルを好きなのか。
 思い出せない。
 私はぼーっと窓から壁を眺めていた。カオルのことだけじゃなく、様々な出来事を思い出すことが出来なかった。
 いつから私はこうなっていたのか、それすら分からない。ただ、自分が自分であることは分かる。
 いくら考えても、何も答えは出てこない。

 ガタっと音がした。

 音の方を見ると、リコが倒れかかっている。
 思わず手を差し出した。
 リコは青白い顔色だけど、なんとか持ち直しているのか、一人で立ち上がった。
 その表情は今まで見たことがないくらい、必死だ。
 何か言おうとしている。私はを黙って見ていた。
「ニーコ、壁の外に出よう」
「どうして?」
「思い出しに行こう」
「何を?」
「カオルのこと」

 リコと私は二人がかりで梯子を運んでいる。折りたたまれているが開けば壁に立てかけることが出来る大きさだ。
 リコの揺れる背中が遠くに見える。結構歩くの速いから、梯子を介して引っ張られた。セラピストのくせに引っ張るなよって思う。

  壁まで大した言葉は交わさなかった。壁にここまで近づいたのは初めてて、触れてみた。オアシスの壁のようにひんやりとしている。
 上を見てみる。三メートルはそれほど高くない。
「バスケットのゴールと同じくらいらしいよ」
 リコが脚立を立て掛けてから言った。
「じゃあ、選手ならジャンプで届くかもしれないんだ」
「一回試してみる?」
「やだ。意味ないよ」
「へー。意味がなくてもやるタイプに見えるけどな」
 それはそう言う意味なのか考えていると、リコが壁から離れた。

 走って跳んだ。

 満たされた大気の隙をついたようなジャンプ。重力さえもリコに気がついていない。そんなふうに見えた。
 ドン。
 けど、落ちた。
「ほら、やっぱ意味ないよ」
「高かったね」
 リコは笑っている。
 でも、壁を蹴ってれば届いたんじゃないかと思う。そのことにリコは気がついているのだろうか。
 もし、私だけが気づいているとしたら、それを試すことが出来ないのに少しモヤっとする。

 ハシゴをかけて登った。壁の上は、落ちる心配はしなくていいくらいの広さだ。ただ、寝返りを打つとしたら簡単に落ちる。
 壁の向こうは、普通の景色が広がっている。下を覗くと、壁沿いは道路になっている。丁寧に切り揃えられた街路樹がカラフルな花を咲かせている。
「じゃあ、降りるよ」
 リコと一緒にハシゴを持ち上げ、逆側に下ろす。
「私が先に降りるから。降り切って合図をしたらニーコが降りて」
 リコは着実に降りていく。程なくして道路に降りた。
「ニーコ、おいで」
 私の番だ。ハシゴに足を掛けようと思った時に、怖いと思った。登ってくる時より、降りる時の方が怖い。
 リコはじっと私の様子を見ていた。
 三メートルなんて大したことないと思うんだけど、逆にその近さが恐怖を生むのかもしれない。
 一度、遠くを見た。微かに家やアパートが見える。近くには施設は見えない。道路ばかりだ。面白味のある景色ではなかった。
 その面白味のないように思える景色を眺めながら、また大きな不安に襲われる。今度のは落ちるかもしれないみたいな恐怖じゃなくて、もっと抽象的な恐怖だ。
 ここを出て、どこまで行っても、この面白味のない景色が続いていくという恐怖。
 もしかすると、この面白味の無さは、私と景色を繋ぐ思い出がないからかもしれない。そう思うと怖い。
 カオルとの思い出を探しに行くのに、どこまで行っても私と接点のない景色が続くのだとしたらどうしよう。
 そうだとしたら、私はこの世界に存在する意味があるのだろうか。
 下ではリコがさっきと同じように待っている。
 ああ、彼女としか、この景色と繋がっている感じを持つことが出来ない。

 だから、ハシゴは使わなかった。壁の上に立って、大気を一杯に受ける姿勢を取ってから、目を瞑って落ちた。

 リコが受けとめてくれないなら、この世界にいる意味なんてない。

 落ちてすぐ、強烈な寒気が私を襲った。それが後悔だと気付いたのは一瞬だ。
 急にいろんな考えが巡っては消えた。
 消えて行ったけど、何か大切な何かがあってそれを追いかけた。
 そこで見えた。カオルの笑顔が。

 ああ、今更。

「ニーコ」
 声がした。リコの声だろうか? 印象は全く違う。心の直接響いてくるように聴こえた。
「ニーコ。君には思い出がある。大丈夫だ。だから今は諦める時じゃないよ」
 そうだ。私には思い出がある。忘れてしまっている何かが。
 背中に何かがぶつかった。小さな粒々のような何かがクッションの替わりをしている。その何かはぶつかって潰れ、弾けながら悲鳴をあげていた。
 私は悲鳴に包まれながら、ボトン、と地面に着いた。
 あたりを見てみる。そこには私の本質が散らばっていた。小人達がその身体をクッションにしてくれていたみたいだ。
 地面に寝転んでいると強烈な眠気に襲われた。本質が現れた影響なのか、ひどく疲れている。
 リコはどうしているかと姿を探すが、見えない。
 眠気に耐えながらも立ち上がると、地面に倒れているリコが目に入った。
「リコ!」
 返事はなかった。
 呆然と立ち尽くすしかなかった。
 そして耐え難い眠気が私を襲った。

鳥居ぴぴき 1994年5月17日生まれ 思いつきで、文章書いてます。