私と父と釣りの話
これは私の父と、釣りと家族にまつわる話です。
父は深夜に起き、釣り道具とキャンプ用品を車に詰め込む。母も同じく目を覚まし、準備を始める。私はと言うと、大体眠っていて、父がお姫様抱っこで私を車に乗せるときに一度、おぼろげに目を覚ますだけ。
辺りは真っ暗で、見慣れたはずの家と車が、なぜか物珍しく見えた。このとき、ぼんやりし、浮かれた頭はこのまま起きて朝まで景色も見てやるという、そんな気持ちなのだけど、車のシートに乗せられた時点ですぐに二度目の眠りについてしまう。
次に目を開けると、優しい朝の光が見えた。薄く青みがかった空、私は気だるさと清々しさを感じている。それは、これから起こる奇跡の全てを目次で見たような気分だった。父の運転する車は穏やかな潮風を一身に受けて走っている。隣の弟はまだ眠りの中で無理やり起こしてやりたい気分になった。いや、実際に無理やり起こしていたのかもしれない。
今どれくらい? と私が聞くと、
「もうちょいだな。あと三十分くらい」
と父は言った。車内にはYUIの曲が流れている。
目的地に着く頃には、弟も目覚め車の中は大騒ぎになる。歌を歌ったり冗談をとめどなく言ったり。持ってきたビデオを流したりする。そしてあっという間に到着するのだ。
防波堤、そこから見える青い海、ここで釣りをする。夏の冒険は決まって釣りから始まり、夕方ごろには近くに田舎臭い大きなスーパーに寄って、キャンプ場に向かう。という流れだ。
毎年行われていたからか、時系列がめちゃくちゃで、どの時の記憶なのかわからないが、印象に残っている出来事がいくつかある。
キスと言う魚を知っているだろうか。学術的に言うと、スズキ目スズキ亜目キス科だ。見た目は透明な白で、笹の葉のように慎ましい造形をしている。もしもキスが空中を浮遊しているところにばったり出会ったら、手を触れてはいけないような美しさを感じると思う。
この魚は、見た目もさることながら、味が良い。刺身にフライ、特に天ぷらが旨い。味は淡白な白身。醤油で食べてもいいが、私は塩で頂くのが好きだ。天ぷらにして、カラッと揚げられたキスにちょこっと塩をまぶす。そうやって食べれば、見た目通りの慎ましい味を楽しめる。後味もさっぱりとしていて、文字通りいくつでも食べられるだろう。
話は逸れたが、そんなキスが大漁に釣れた日があった。父も、母も私も弟も皆、まさに入れ食いだった。防波堤からなるべく水平線の方に投げると、十分も経たずに一尾、また一尾、と。
あれほど魚が釣れると、本当に楽しい。ちゃんと魚が釣れたのは後にも先にもこの日くらいなものだが、釣りは楽しいものだと思うには充分だった。
テグスと呼ばれる糸の先に付けた釣り針に括り付けた餌の誘惑に惑わされたキスの必死の痙攣、ゆっくりと竿自体を引き、テグスに出来た余裕をリールで巻き取る時のやけに落ち着いた気分、もう目に見えるほどの水面下で煌めき翻す小さな星、水面から引きずり出され、その生命の重みを重力いっぱいに浴びた身体は、釣り針に掛かってから一番激しい筋肉の伸縮を見せ、釣り竿が大きくしなる。
その頃の私は、魚が触れなかった。魚だけでなく、犬猫も触れないのだが、動物たちの予測不可能な動きがどうしても怖かった。なので釣った後の魚は父に処理してもらっていた。つまり、父がいなければ、釣りなんて到底楽しめるものではなかっただろうな。
家に帰ってから父と母が下ごしらえをして、これでもかと言うほどキスを食った。私の中でキスと言う魚は、幸福の意味を持っている。
釣りにまつわる嫌な思い出もある。それは、海沿いを家族で散歩していた時の出来事だ。
おばちゃんが突然話をかけてきた。その腕の中には飼い犬が抱き抱きかかえられており、その犬の足には釣り針が刺さっていた。
釣り針には、魚が逃げてしまわないように返しがあり、無理に取ろうとすると肉が抉れてしまう。血がどれくらい出ていたかは覚えていない。ただ、あの老婆のすがる様な目を覚えている。
「なんとかできませんか?」
悲痛な声だった。なぜ通りすがりの家族にそんなことを頼むのか、今になってみると不思議だ。しかし、事実、あの老婆は声をかけてきた。犬がかわいそうだと私は思ったし、弟も母もそう思っていたと思う。が、父は躊躇なく、
「そう言うのは医者に連絡してください。俺たちがやってなんかあったら俺たちのせいになるでしょ?」
と言った。普段の夕食の会話くらい普通にだ。そしてそのままスタスタと歩き始めたから、母も弟も私も付いて行くしかない。なんとも言えないやり切れなさがあった。日は暮れかけていて、私たちはそのままお土産を買いに行った。
当時、私はその出来事を善とも悪とも捉えることはできなかった。今、改めて思い返してみると、やり方はあるだろうが、一種の正しさだろうと思う。とにかく、そんな父の元で育った私はそう思う。
こう、あれこれを思い返してみると、意外と覚えていることに驚く。全て良い思い出だ。過去を何か形に残すためにこの文章を書いているが、この個人的な釣りの思い出の話の最後は、初めて釣りを父から教わった日の話で終わりたいと思う。
その日は雲ひとつない空だった。防波堤に着くと、みんなで荷物を降ろした。父は釣り竿にリールをつけ、テグスを伸ばす。伸ばしたテグスには、なにやら特別な結び方で錘と釣り針を付けた。途中、インスタントコーヒーを小さなガスコンロで沸かしたお湯で飲んだりしていて、一種の儀式的なその行為を私は、少し嫌だなと思ったりした。
清々しい朝日を浴びながら私と弟は、ウォータータンクからとめどなく流れる、冷たい水で足を洗ったりして、釣りの準備が整うのをはしゃいで待った。
父が遠くで煙草を吸い終わると、釣りが始まる。釣り針にゴカイというミミズの様な生き物を差し込む。頭から尻の先に向けて針が届くところまで。
最初は自分でやろうとしたがなんとも気持ちが悪くて、結局父が付けた。そしてその釣り竿を私に渡す。
「いいか、ギリギリまでテグスを掴んで、投げる瞬間に放すんだぞ」
私は緊張した頭の中で、テレビで見る釣りのイメージと、父からの助言を意識して竿を振る。思い切り。しかし、テグスを放す瞬間を誤り、すぐ目の前の海にゴカイを付けた針は沈んだ。錘の衝撃が怖かった。
「あぶねぇな」
父は反射的に言う。私は怖くて釣り竿を父に渡した。
テグスの先の針を、注意深く見つめながら竿の先端を頭の後ろに持って行く。少しだけ右肩に沿う様に腕を斜めにし、海をじっと見つめた。静寂が訪れる。
そして、そこにしかない絶妙のタイミングで重心を移動させながら、水平線を捕まえてしまいそうなほど遠くに針を飛ばした。風を切り裂く音とテグスが放出されるが心地よく響いた。
父の後ろ姿は別にかっこよくなかったけど、とても正しさを持っていた様な気がして、僕はもう一度、釣り竿を思いっきり振りたいな。と思った。
鳥居ぴぴき 1994年5月17日生まれ 思いつきで、文章書いてます。