聖なる愛

「マリアを聖母たらしめた要素はなんだと思う」
 晩秋の風のようにその声は冷え、微かに怒りを孕んでいた。わたしはプリンのガラス容器を指で撫でながら目線を上げた。
「……処女受胎?」
 わたしは教科書を読み上げるように答えた。赤線で引かれたように強調された要素。赤子を抱き慈しむような表情の女性を思い描く……処女の母親。
「そう、処女であること。無原罪であること。清らかな方法にしてイエスを産んだこと」
 〝清らか〟を吐き捨てるように発音した主は名前を清といった。美しい黒髪を胸まで伸ばし、端正な顔立ちゆえに顔を歪ませるとその部分が妙に目立つ。苛立ちを隠していながらも彼女の鼻背部に皴が寄るのを、わたしは見逃さなかった。清は目を伏せつつ、冷めた珈琲を一気に飲み込んだ。閉じられた瞼は微かに震え、珈琲が喉元を通り過ぎる音がする。
「マリアは男を知らなかった。いい?陰茎の有無が信仰にすらなる。陰茎の排除が聖母たらしめている」
 清は苦し気だった。その表情の理由が冷え切った珈琲に残された苦みであるか、心情によるものか判断し難かったが。清は珈琲をもう一杯頼み、わたしは喫茶店の店主が珈琲を淹れる様を見つめた。店主は白髪の老人であって、右脚に何らかの不具合があるらしく時折跳ねるように歩いた。珈琲豆を挽き、湯で蒸らし、抽出する。幾度となく繰り返されたであろう儀式を丁寧に、細く骨のように白い手で慈しむように行う。彼にとって赤子のように愛おしむべき存在、そして我々の喉奥へ飲み込まれ排出されていく液体。
「結子の話をしているのね」
 わたしは言った。言わねばならぬことを口にしたようだった。台本があり、与えられた台詞を読み上げる役者のような気持だった。清は目を細めてわたしを見つめ、頷いた。
「結子は清らかであるべきだった。わたしが言いたいのはそういう類の話……彼女は聖母になり得る存在だった」
 あるべき・なり得る、というのは身勝手な感想だと思った。清の怒りをわたしは十分理解していたから、口に出すことはなかったが。
「結子が男と結ばれて子を生したとき、わたしは……」
 結子は先月子を産んだ。平均的な体重の男の子だった。わたしと清、結子は中学校からの仲で、大学まで同じ道を進んだのち卒業し、その三年後の出来事だった。学生時代、清は明らかに結子に情熱を向けていて、それは友愛や執着を優に超えたものだった。
 言い淀んだままの言葉を、清は吐き出すように続けた。悍ましくも喉奥に潜んでいた秘密を。「わたしは、ある夢をみた」
「わたしと結子はベッドにふたり、口づけをして、愛し合い、繋がった。確かにわたしたちは繋がり……陰茎の存在を無くして子を生した」
 清の口元が幸せそうに緩むのを見た。わたしが中学生のときから見つめ続けた清はいつでも結子を慈しみ、時折暴力的なまでの性愛を向ける。結子の肉感的な身体、その透き通る肌や柔らかさを彼女は夢で如何に犯したのか。わたしの胸奥で微電流が走る。
 陰茎という言葉は日の陰にある茎と書き、女性は太陽であると言われるままに仮定した場合それはある程度理解のできる言葉の成り立ちであるが。男根とする場合は男という生き物に生える根であって、陰茎とする場合は陰に存在する茎である。根であり茎であり、葉や芽では表されない物質。結子と清が混じり合う際に排除された要素。
「わたしは思う……結子の子どもについて。もしやわたしたちの子どもではないかと」
 清は微笑んだ。清らかな笑顔、言葉の気味悪さに反して天使のような笑顔だった。新しい珈琲が運ばれてきて、芬々と香るほろ苦さ。店主が不自然な歩き方で帰ってゆく。
「わたしたちは子を生したのだと思う、抽象的、あるいは具体的に。夢での情交に意味を求めるのは自分本位だろうか?」
「清はいつでもエゴイストね」
 わたしはそう言うとプリンを掬って、食べた。主に卵と牛乳と砂糖で構成された食べものはその場では何かの象徴に思えた。生物学的に女と女が混じり合ったとして、子を生すことは叶わない。卵と乳だけを生み出すわたしたちが拵え得るものなんて、プリンがいいところだろう。馬鹿げた想像をわたしは鼻で笑い、清は自分が笑われたように感じ微かに顔をしかめた。
「『心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る』」
 わたしは清を見つめた。その黒色の瞳、嫉妬と恋慕、寂寥の色を。
「きっとあなたは神を見たのね」
 わたしは祈る。清がわたしの瞳に何かを見出すことを。あるいは、自分と同種の何かを。

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