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私が旅先で手を合わせ続ける理由

海外旅行に行くことを決めると、必ずその国の日本人墓地について調べる。そして戦時下の日本と関係がある国の墓地には必ず訪れることにしている。

ウズベキスタンの首都、タシュケントには第二次世界大戦後に強制労働のために連れてこられた日本人の墓がある。
その日本人によって作られたナヴォイ劇場は、地震の時にびくともしなかったという褒め言葉を今でももらうほど。

そんなこともあってなのか、日本人墓地のエリアはとても広く、手入れが行き届いている美しい場所だった。

真新しい花束がたくさんあった

墓でなくとも、日本人が戦時下に関わった場所には同じ気持ちで足を運ぶ。

タイのカンチャナブリーは、映画「戦場にかける橋」の舞台。日本軍がミャンマーへの物資輸送のために作った鉄道路線。

現地の人や捕虜兵士などが劣悪な環境下で働き、膨大な死者数となった。海外ではDeath railwayとも呼ばれている。

慰霊碑も訪れたけれど、先に博物館を見たせいか、苦しくて写真が撮れなかった。

この世界各国墓参りは、戦死したという大叔父の命日が、自分の誕生日と同じだと知ったことから始まった。

お彼岸で墓参りに行った日、ぼんやりと墓誌を眺めていたら365日の中で一番馴染みのある日付を見つけた。2月6日、自分の誕生日。

私が生まれる前から墓はあるから、年に1.2回、20年以上足を運んでいる。それなのにずっと気付かなかった。
気づかなかったことにも、自分の誕生日と同じ日が刻まれていることにも驚いた。

大叔父について知っていることは、家に飾られている遺影で、どことなく親戚と顔が似ていること。当たり前か。
遺影が帽子にセーラー襟の服で写っているのは、海兵として戦死したからということだけ。
だけどこの偶然から、大叔父のことをものすごく知りたくなった。

祖父は10年以上前に他界しているので、生きていた頃の大叔父のことを知る人は、その下の妹と弟だけ。
だけど妹であるおばさんは遠くに住んでいて、弟のおじさんは施設に入ってしまっている。

だからここから先の話は、父から聞いた話と、過去に祖父から聞いた話を繋げたもの。
私も忘れたくない備忘録だ。


祖父は4人兄弟の一番上。次男、長女、三男と続く。

戦時中、祖父は一度は徴兵されて工場で働いていたものの、教員になることが決まっていたのですぐに返されたそうだ。
そして戦地には行かず、教え子たちを連れて栃木県に疎開することになった。

新婚だった祖母は栃木県出身。逆転遠距離結婚生活がスタートしたそうだ。

上の弟、次男には赤紙が届き、海兵になった。
そしてマーシャル諸島近海で亡くなった「らしい」。

戦死したという事実はそれを知らせる紙一枚。
骨はないし、戦って亡くなったのか、病気なのか、飢餓なのか。本当のところは分からない。
だから「らしい」のだ。
もしかしたら、命日だって2月6日ではないのかもしれない。場所だってマーシャル諸島近海ではないかもしれない。

今でも行方が分かっていない人がいる
日本に帰れなかった人がいる

戦争について学び、もっていた知識。
教え子にも教えてきたこと。

それでも骨も見つかっていない戦死者の1人が親族にいることを、私はこの時まで知らなかった。


マーシャル諸島のことだって、かつて日本領だったことくらいしか知らない。

Googleで調べていく。
日本人墓地が温暖化によって海水に侵食されていること、今でも遺骨や日本軍の武器が見つかることを知った。

もう私の頭の中のシグナルは次の夏休みに向いていた。

行くっきゃない、マーシャル諸島。 


祖父は信仰深い人だった。毎朝仏壇の手入れをして、手を合わせていた。
祖母の命日や終戦記念日には、その時間がより長かったことを私は知っている。

そして戦争のことは多くは語らなかった。今思えば、語りたくなかったのだろう。

マーシャル諸島に行って、現地で日本人墓地を訪れたとしたら、そこには大叔父が眠っている場所なのかもしれない。
見えなくても海底には骨や遺品があるのかもしれない。
祖父のあの手を合わせた時間に、もっともっと意味を持たせられるかもしれない。

祖父は亡くなっているのだから、それは私のエゴでしかないのかもしれないけれど。

ところがこちら、アクセスがものすごく悪い。早くても2日かかる。グアムからアイランドホッパーを利用するのだ。
アイランドホッパーとは、飛行機の各駅停車のようなもので、いくつかの島に都度着陸する。

結局、夏休みの予定が出てからも日程は足りないし、グアムやハワイを経由するからハイシーズンで航空券がとんでもなく高くて諦めてしまって、今もそのままでいる。


マーシャル諸島には行けなかったけれど、その年は予算と日程がいい感じに収まったタイに行くことにした。
そしてこの記事の前半に載せたカンチャナブリーを訪れることにした。

大叔父のように日本に帰れなかった人たちは大勢いる。時代の流れと共にそれが忘れ去られてしまうような気がした。
現に私は、この時まで知ることなく生きていたのだから。忘れる以前の問題だ。

戦争を経験した人が高齢になり、風化されてしまうことが危惧されている。
私は教員だから、戦争は知らなくても見てきたことを次世代に伝えることはできる。戦争を風化させないような、種まき活動になるかもしれない。

だから、できる限り海外の日本人墓地に行って手を合わせる。


ロシアの日本人墓地を訪れた時が一番感慨深かった。極東ロシア、ハバロフスク。英語はホテル以外ほとんど通じない。
「地球の歩き方」には載っている町だけれど、移動に時間がかかるせいか日本人にも会うことはなかった。

それでもその町を訪れた日がたまたま終戦記念日で、どうしても日本人墓地に行きたかった。

墓地は郊外にあって、そこに向かうバスに乗ったはいいけれど、ロシア語は聞いても読んでも分からない。

英語が通じない時の作戦。ガイドブックのページを指さしてアピールしまくる。あっちにもこっちにも。

降りていく人は皆、私を指差しながら他の乗客に何か話しかけていく。
そう、ちゃんとバス停で降りられるようにしてくれていた。最寄りのバス停に到着したときには、何人もの人がここだここだと手振りで教えてくれた。

それまでロシア人に対して、淡々としているんだなあというイメージを持っていた。観光客を珍しがることもないし、話しかけてくることもない。
それまでの旅行が東南アジアばっかりだったから、そっちに慣れすぎていたのかもしれないけれど。

だから、ロシアの人の優しさに触れられたことがすごく嬉しかった。

墓地はすごく大きくて、日本人墓地は10分くらい歩いたところにある。探すのは難しい。
ここに来る日本人の目的地は1つしかないから、誰に訊ねても教えてくれた。

やはりこの日は先にお参りした人たちがたくさんいたようです。

花を買うのにも、お金のやりとりだって上手くいかない。お店のおばあちゃんは、必要な紙幣を見せて教えてくれた。
おばあちゃんが選んでくれた花は、私の大好きな黄色と紫が入っていた。

菊に似ている花なのか、菊なのか。

ねえ。おじいちゃん。
日本とロシアは昔戦争をしていたけどさ。私は今日、ロシアの人に助けられながらお墓参りに来れたんだよ。

おじいちゃんだって日露戦争は知らない世代だけれど、「戦争」を知っているんだから、時代の変化に驚くかもしれないね。

今でも過去の戦争で起きたことについて他国と揉めているニュースはなくならないけれど、私はありがたいことに外国にいても平和だなあって感じられてるよ。

帰りのバスで、終戦記念日にずっとずっと手を合わせる祖父の姿を思い出して、話しかけた。


私はきっと、これからも世界各国墓参りを続けていくと思う。マーシャル諸島だって諦めていない。(今年しかない気がする。)

偶然にも人生の重要な1日の日付が同じだった大叔父の軌跡に、あと一歩近づきたい。
そして、祖父の分まで大叔父に向けて手を合わせたい。


余談①
祖父からは「お前はばあちゃんの若い頃によく似てる」と何度か言われた。
顔ではない。生活音が騒がしくて、いつもバタバタしているところらしい。

お見合いで祖母の実家を訪れた祖父は、客間で長時間待たされたそうだ。
その間、ドタバタとした足音や「母ちゃん!着物これでいい?」という声が響く。そしてやっと登場したのが祖母。

そそっかしいし雑なのが私の欠点だけど、祖母は祖父よりも20年以上早く亡くなったから、ちょっとでも思い出してくれるきっかけになっていたならよかったなあ。

余談②
祖父が亡くなった後に遺品整理をしていたら、仏壇の中から当時祖母とやりとりしていた手紙の山が出てきた。新婚だからちょっとラブレターチックで、ニヤニヤしつつも泣きながら読ませてもらった。
私が祖父だったらそれを読まれることは恥ずかしくて夢枕に立ってでも、読むなと言いたい。だから1回で終わりにした。

祖母は病気がちな人で、私の記憶の中では家よりも病室にいる姿の方が多い。
祖父は毎日病院に足を運んでいたし、偶然にも同じ病院に入院したときには特別な配慮で同室にしてもらっていた。

つまり、歳を重ねても仲が良かったのだ。羨ましい。

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