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ハキハキ母親とのんびり父親

今日は久々に実家に行った。私の母親と父親は社会によくいる二人である。母親はズバズバ思ったことを口にするタイプで流行に敏感である。今日もNetflixの話から始まる会話。

一方、父親はお酒の力を借りないとうまく人に説明できないタイプ。頑固でマイペースな一面も持っている。

そんな二人だから、いつも、口喧嘩は母親が捲し立てて終わる。

今回はケンカではないものの、母親と父親のやり取りから“社会のあるある話”を感じ取れたひとときであった。

夕方、1日の睡眠時間が足りてない息子と共に散歩に出かけることにした。抱っことベビーカーを駆使して格闘の末ようやく眠りについた小さな巨人。30分寝られれば御の字なのだが、こちらもこちらで格闘をした後で、ここからアディショナルタイム30分と大きく掲げられても耐えれなかった。10分は我慢したもののギブアップ。私と母親はベビーカーを玄関に入れて、玄関で寝てもらう作戦を立てた。ベビーカーを玄関に置いて、リビングへ。私の次は、母親が、そのあと息子を抱いた父親がリビングに来た。私と母親は「はぁ?」父親は「え。」
もちろん息子は夕方十分な睡眠を得れなかったので、このあとグズグズタイムが本寝入りまで続くわけでした。

父親の行動を見た母親は「あの人は子育てしてないから、何がいいかわかってないのよ」「まったくもー」と言った。それを聞いた父親は「あ。玄関で寝かしておくんかあ。ごめん。連れて行って寝かせるんかと思った。ごめんよー」と言っていた。

私は冷静に、“良い悪い”を見極めようとした。
見極めようとしたらしただけ、わからなくなった。父親は何も悪気があるわけではない。むしろ息子のための行動なはずだ。しかし母親から見れば、父親の行動は何も子供のためになっていないと思っている。まさに社会の中のよくある光景だと感じた。私は、ここで母親が正しいとは思わない。

母親が父親の本当の本当に気持ちに寄り添っていれば、さっきのような言葉は出てこないわけである。人間のできることはここから始まるのではないかと思う。その人になりきってなりきって、放つ言葉にはその人にとって価値のある言葉となる。どのようにして伝えれるか。ここに真価が問われるわけになる。なにも巷のHow to 本のことを言っているのではない。今持てる力を持って自分なりに理解をする。そこからのHow にならなればならないと感じた。

そのため父親の「ごめんよー」には一種の悟りのようなものを感じた。ミスをし続ける父親だが、憎めないかわいさがある。



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