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目的意識が大切だ

少し暇があったので書店に寄り、棚に並べられていた文章術の本を、パラパラと立ち読みしてみた。
曰く、文章というものは、目的によって最適な書き方が変わる、と。

なるほど、なるほど。

だから、いちばん最初に定めるべきは、「なんのために書くのか」だ。
いつ、どこで、だれが、なにを、どのように。
その文章を書くことで達成したい未来を、心の中に、はっきりと思い描く。それが先決だ。

ただ情報を伝えるだけなら、余計な装飾はいらない。詩的な表現も、多義語を使った掛け言葉も、理解の邪魔になるだけだ。
ところが、単なる情報ではなく、感動や情緒を伝えたかったり、娯楽として楽しんでもらいたかったりする場合には、少しばかり理解を妨げるような、しかしながら味わい深い、趣きのある言葉が必要になる。

これは、言葉の選択など表現方法に関する一例なわけだが、もちろんそれだけにとどまらない。表記法然り。構造然り。一文の長さだとか、文字数や音節数といった、文章のリズムにもまた、目的別に最適解がある。

でも別に、目的ごとに最適な方法が違う、なんてのは「文章」に限った話ではない。

たとえば、「勉強」にもあてはまる。
テストで点を取りたいだけなら、たった数時間しか勉強しない「一夜漬け」などの短期集中型のほうが、はるかに時間効率はいいだろう。一定量の知識を短期記憶に放り込めれば、そこそこ点は取れる。
しかし、実際に生活や仕事で役立てたいなら、長い時間をかけてでも応用と実践に取り組み、知識の活用法を身につけるほうが、逆に一番の近道になる。

読書も、娯楽として読むのか、勉強のために読むのか、それぞれに「よい」読み方がある。リラックスしてジュース片手に読むとか、大事だと思ったところに線を引いて繰り返し読むとか、ね。

目的意識が大切だ、そんなことは火を見るよりも明らかだ。少し考えれば誰でもわかることだ。でもあえて、口を酸っぱくして、その陳腐で言い古された言葉を繰り返したい。

すべての物事、あらゆる行動には、必ず目的がある。必ず、だ。しかし、目的が「意識」されることはあまり多くないように感じる。

なぜかって?

そりゃ、意識することはリソースを消費するからだ。脳みそはいつもいろんなことを考え、あまりにも多くの情報を処理している。それなのに、どうしてくだらないことに限られたリソースを割かなければいけないのか。重要なことだけに集中させてほしい。とかなんとか言ったりするくせ、「余力も残しておかなきゃね」と屁理屈こねて、平気な顔でサボったりする。

だから、本来の目的を見失ったまま、だらだらと無駄な時間を過ごしたり、甚だ非効率な方法であることに気づかずに時間と労力を浪費したりするのだ。怠惰と惰性によって、見事に目的がすりかえられてしまっているのに、まったく気づかないのである。

目的意識が大切だ。

辿り着きたい場所があるのなら。
今の自分がどこに向かって歩いているのか、はっきりと意識する必要がある。もしかしたら正しい方向に向き直る必要があるかもしれない。

自分がなれる最高の自分になりたいのなら。
今の自分の選択がどんな未来につながっているのか、はっきりと意識しなければならない。もはや自分の選択がもたらす結果に無頓着ではいられない。

だから、何度でも言おう。

目的意識が、大切だ。

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