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映画パンフレット感想#41 『メイ・ディセンバー ゆれる真実』


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感想

幾度も現れる意味深長そうに見えるシーンとその演出に、「これはメタファーか、はたまた伏線か」とひたすら思考を要請され、ひたすら撹乱され続ける映画だった。そんな仕掛けだらけで底知れない映画の性質とは裏腹に、パンフレットはA5サイズで28ページと至ってコンパクト。主な収録内容も、キャスト2名のインタビュー、監督と脚本家のインタビュー、寄稿記事が2本にプロダクションノートと、構成はシンプルな印象だ。

キャストへのインタビュー記事は、グレイシー役のジュリアン・ムーアと、ジョー役のチャールズ・メルトンの2名分が掲載されている。それぞれ自身が演じた役柄への解釈を踏み込んで語っており、グレイシーとジョーというキャラクターの内面を改めて探るのに大いに役立つだろう。エリザベスは文字通りグレイシーを演じていたが、グレイシーとジョーもそれぞれに“何か”を演じていたことがわかる。

エリザベスを演じながら、本作のプロデューサーでもあり、そもそもトッド・ヘインズ監督に本作の脚本を送ったという映画『メイ・ディセンバー』の要的存在であるナタリー・ポートマンは、インタビュー記事が残念ながら掲載されていない。どうしても彼女のインタビューも読みたかったのでネットで調べたところ、ひとつ記事が見つかったので紹介する。案の定、本作の核心に触れるような言葉が語られていたので読むことをおすすめしたい。

トッド・ヘインズ監督へのインタビュー記事では、エリザベスがついに映画の撮影に臨むあのシーンについても言及されている。が、やはり核心ははぐらかされている印象を受けた。これは、脚本を手がけたサミー・バーチがインタビュー記事で「この映画には答えよりも問いかけのほうがたくさんある」というように、プロダクションノートで抜粋された監督のコメントで「観客が映画の中で起こることに疑問を感じ、その解釈のプロセスを楽しんでもらいたい」とあるように、あくまでも解釈を観客に委ねたいことの現れなのだろう。

プロダクションノートの記事は興味深いエピソードが多数あったが、中でも本作を撮るにあたりインスピレーション元とした過去の映画作品を紹介する箇所は、答え合わせ的に楽しめた。特にイングマール・ベルイマン監督『仮面/ペルソナ』は、エリザベスとグレイシーが二人でカメラに向かって撮られる正面ショットや、2人が同一化するプロットなど、引用を窺わせるものだった。なお、『仮面/ペルソナ』で失語症に陥る女優の名前はエリザベートである。

2本の寄稿記事も面白かった。映画評論家の三留まゆみ氏による「“意地悪”のスパイス」という記事では、トッド・ヘインズ監督らが本作に仕込んだ「撹乱の仕掛け=意地悪」を取り上げて解説され、精神科医・批評家の斎藤環氏による「外傷の転移と解呪」という記事では、主要人物らが受けた心的外傷、心理的反応などを(おそらく)心理学的観点から分析されている。

正直なところ、私は映画鑑賞中に本作に仕込まれた「意地悪な仕掛け」を感知できず、ネット上で見られる「ブラックコメディ的である」という指摘や、本書の三留まゆみ氏の寄稿に面食らってしまったのだった。撹乱はされたが、そこに皮肉的なまなざしを見出せなかった。ただ、本書を読んでその理由について自分なりの答えを導き出せたような感覚を得た。

本作は、作り手の演出による撹乱の仕掛けや、登場人物たちの何かを装う演技が、劇中で起こる出来事の不確かさを醸成させている。しかし、ジョーが無自覚に続けていた「大人でいる」演技をやめるまでの変化と、その呪縛から解き放たれたときのあの表情は、唯一この映画で“本物”であると感じ得たのだ。それこそがこの映画の核にあたる部分だとして受け取ったがために、皮肉的なトーンを感知しなかったのではないか、と。とはいいつつ、ジョーの切実な“人生”を知りながら、“物語的”映画として消費せんとするエリザベスには、批判的な視点を持つべきだったと反省もしている。やはりこの映画、底が知れない。

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