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【研究ノート】レヴィナスのデカルト解釈①

はじめに

本稿で試みようとしているのは、レヴィナスがどのようにデカルトを解釈していたのか、その一端をささやかながら示すことである。以前、こんな記事を書いた。

あくまで仮説、いや、もはや思い込みのようなものだが、両者の哲学は「脆弱な自我」を出発点としている点で共通していると私には感じられた。

というのも、彼らは「自我」の手前ですでに「他者」を受容していると思われたからだ。そのような受動性をすぐさま「脆弱」と形容してよいとは思わないが、少なくとも自我が静態的・不可変の実体であるようなイメージを解体する可能性を秘めている点は、認められてもよいのではないかと考えている。

そういうわけで、レヴィナスがデカルトをどのように解釈したのかを『全体性と無限』から改めて探ることにした。

改めて読んでみて、驚いた。その驚きは次の二点を理由とする。

第一に、『全体性と無限』は、こういってよければ、レヴィナスのデカルト再解釈の書物でもあるという点だ。それは彼の師であるフッサールが『デカルト的省察』で超越論的自我を模索したのとよく似ている。

第Ⅰ部「〈同〉と〈他〉」は、自我と他者が「縛られず孤絶した」状態で、すなわち、両者がひとつの「全体性」に統一されない仕方での関係を模索することを主たる目的としている。そのたたき台となっているのが、デカルトの「コギト」概念である。

デカルトは真理探究の第一原理を基礎づけるため、方法的懐疑によって疑いえるあらゆる事物の存在を疑った。

懐疑しつくしたその果てに「疑っている私」すなわち「コギト」の存在を発見するに至る。これがかの有名な「われ思う、ゆえにわれあり」という命題の意味であるのは、周知のとおりである。

レヴィナスのなかでデカルトの存在感は相当大きいことがわかってきた。にも関わらず、私はそれを汲み取れていなかった。テキストをちゃんと読めていなかったのだなと不勉強を痛感させられた。

その意味において、私は自分の無知に恥ずかしさを感じた。これが第二の驚きである。(もちろん、今後も無知による羞恥の念は絶えないだろう)

デカルトの「コギト」は疑いえないのか?

さて、以上のように、レヴィナスは「コギト」を下敷きに議論を展開するわけだが、では一体、レヴィナスはデカルトをどのように再解釈していたのだろうか?

まず注目すべきは、コギトの明証性への問い、すなわち、本当に「コギト」は疑い得ない存在の第一原理なのだろうか?という疑問である。彼はこの点に関して次のように指摘している。

懐疑によって現出する否定性のうちで、自我は融即を破りはするものの、自分一人ではコギトのうちに停止点を見いだすことはない。然り[oui]と言うことができるのは、私ではない―〈他者〉である。肯定は〈他者〉からやって来る。〈他者〉が経験の端緒にあるのだ。

藤岡俊博訳『全体性と無限』(講談社学術文庫,2020) p.161

つまり、デカルトのように「疑っている私の存在は確実だ」といくら主張したとしても、私一人が勝手にそう思い込んでいるという可能性を排除できない。

なぜなら「思い込みではない」と証明する資格を有するのは、疑っている当の本人ではなく「他者」だからだ。他者からの承認(肯定)があってはじめて私の存在は確実なものとなる。

もし他者の承認なしにそれを主張し続けるならば、「コギト」は自作自演の茶番、単なる独我論との誹りを免れないだろう。

さらに「疑っている私」が他者からの承認を得られるまでは、私は無限に「疑っている私」の確実性を疑うことができる。

レヴィナスはこの不断の懐疑(否定)を「無限否定」と呼ぶ。そしてこの「無限否定」を「主体は停止することができないのだ」[1]。

にも関わらず、デカルトは「疑っている私」を第一原理として恣意的に定めてしまった。このことをレヴィナスは「恣意的な停止点」と呼び批判している[2]。

〈無限〉の観念

コギトの「無限否定」は、文字通り無限の運動であり、主体自身による停止が不可能な事態を指している。それはつまり、自己の確実性を自己自身にではなく、暗々裏に「他者」を前提していることを示している。

デカルトは「他者」という言い方はしない。そのような他者性を表すのに、代わりに「無限」を用いる。

デカルトにおける「無限」とはすなわち「」を意味する。『省察』の第三省察において、デカルトは神の観念について次のように述べる。

無限な実体においては、有限な実体においてよりも、より大きな実在性があり、したがって無限なものの認識が、有限なものの認識よりも、つまり神の認識が私の認識よりも、ある意味で先行して私のうちにあることを、私は明らかに理解しているからである。なぜなら、私が疑い、欲していること、つまり何かが私に欠けており、私はまったく完全なものではないことを私は理解しているが、何らかのより完全な存在者の観念が私のうちにあって、それとの比較によって私の欠陥を認めるのでなければ、いかにしてそう理解できるのであろうか?

山田弘明訳『省察』(ちくま学芸文庫,2012) p.73

つまり、「私は不完全である」と私が理解できるのは、私のうちにすでに完全なる神の観念を持っており、それと比較しているからだというのである。

それでは、いかにして有限者である私のうちに、無限であるはずの神の観念が宿るのかというのだろうか?

この点についてデカルトは、自己の観念と同様に神の観念もまた「生得的」であるといって獲得プロセスを明らかにしていない[3]。

彼にとっては神の観念の獲得のプロセスよりも、私たちがみずからを完全なるものとの比較で理解しているという事実が、論理的に明示できればそれで十分なのである[4]。

また〈無限〉は思考の対象にはなりえない。なぜなら〈無限〉の無限性は、有限者によって《観念されたもの》を常に溢れ出てしまうからだ[5]。

観念された当のものを常に溢れ出てしまう事態そのものが、〈無限〉の無限性の尺度となる。ゆえに、有限者である私には到底把握しえない。

そのように捉えるならば、私はみずからの有限性によって、思考から溢れ出てしまう思考不可能な「無限」=「神」の観念を、生得的に私のうちに含んでいることになる。

レヴィナスはここにデカルトにおける「受動性なき受容性」[6]を見出したのである。

そして、この「受動性なき受容性」としての〈無限〉と有限のコギトの関係は「直観」[7]の認識形式によって成立している。

「直観」は「思考」と異なり客体を対象化しない。

「思考」は客体を対象化し、自我のうちに包摂する知性の一種であるが、「直観」は「思考」における我有化ではなく、〈無限〉=〈他なるもの〉と有限のコギトとの分離を保ったまま関与する関係を支えている。

したがって、レヴィナスのコギトの明証性についての問いに対する答えは、次のように要約できるだろう。

つまり、デカルトのコギトは「疑う私」=「考える私」ではなく、〈無限〉という〈他者〉を「直観する私」である。〈無限〉を、〈他者〉を、暗黙の裡に「受容してしまった私」である、と。

今回は以上である。次回は「直観」「受容」の視点からコギトの問題について考えていきたいと思う。


※脚注

[1] 藤岡俊博訳『全体性と無限』(講談社学術文庫,2020) p.161
[2] 同上 p.160
[3] 山田弘明訳『省察』(ちくま学芸文庫,2012) p.73
[4] 神の観念は形而上学的な水準の議論かと思われるが、にも関わらず、経験的な水準に引き戻して証明する姿勢は多分に問題含みであるといわざるを得ない。スコラ神学から多大な影響を受けているからだろうか。
[5] レヴィナスは〈無限〉を、デカルトの「表象的実在性」と「形相的実在性」の「非合致」として捉えている(『全体性と無限』p.80の訳注25を参考にした)。これらの説明は『省察』p.186,187に詳しいので参照されたい。
[6] 藤岡俊博訳『全体性と無限』(講談社学術文庫,2020) p.375
[7] 同上

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