「哲学」を学ぶ意義 ー 学校教育における「問う」と「答える」の関係から考える

こんばんは。ぬまです。

本日は「哲学を学ぶ意義」について、学校教育での経験を振り返りながら書いていきたいと思います。

なぜこのテーマについて書いたのかというと「聞かれたことに答えるのは得意だけど、あまり質問してくれない人多いな」とふと思ったからです。本当に優秀な人はどちらもできるのでしょうが、僕の周りでは割と、流暢に答えることはできても相手に関心をもって何か尋ねる人は、あまり多くない気がしたのです。

ということで、今回は学校教育における「問うこと」と「答えること」の関係から出発して「哲学を学ぶ意義」ということについてちょっと書いてみます。

学校教育

僕たちは、学校で徹底的に「答える」能力を鍛え上げてきました。それは、定期テストで出題される問題への回答であったり、授業中での先生から問いへの回答であったりします。質問に対していかに正確に・迅速に答えることができるか。学校教育におけるほとんどの時間が、その答えの導き方に割り当てられていると言っても過言ではないと思います。

また、学校教育における生徒の評価軸は、基本的に学業成績です。もちろん授業態度や協調性などのソフト面も見られるとは思いますが、主には勉強ができるかどうかで判断されます。その中で「成績が良い」とされるのは「問われたことに対して正確に回答できた回数が多い人」です。すなわち、学校で優秀だとされた人は、与えられた問題に対して「正しく答える」ことができる人です。

他方で「問う」能力に関してはどうでしょうか?これまでに「問う」ことを中心とした授業ってあったでしょうか。少なくとも僕の経験では、「問う」ことについて本格的に教育を受けた記憶がありません。「三角関数を使って自由に問題をつくってみよう」というような「問いをつくる」課題はありませんでしたし、「なぜ三角関数はこの公式なのか」と「問いを立てる」ことも、おそらくなかったはずです。先生たちは「答え方」は教えてくれますが、「問い方」は教えてくれませんでした。だから、授業中や授業後も、先生に質問している人をほとんど見かけることはありませんでした。なぜか「問う」ことに関しては、生徒に任せきりで、先生はまったく関与していなかったように思うのです。

このように「答える」と比較すると「問う」というのは、学校の中であまり重要視されてこなかったように気がします。同時に、「答える」ことが上手な人の方が「問う」ことが上手な人よりも優秀だという評価態度が、自然と形成されているのではないでしょうか。

もちろん、問いに対して正確に「答える」ことは大事だと思います。発生した問題に正しく対処・解決しなければ、世界は問題だらけになってしまいます。問題ばかりが生み出される世界ではどうしようもないので、もちろん答える人は必要です。そういう意味では、解決にいち早くたどり着ける人は優秀だと思います。

しかしながら、それだけでは社会は立ち行かないのではないでしょうか。「問う」力があってこそ「答える」力が輝くのであって、後者だけでは、社会や人は良くなっていかないのではないかと考えています。したがって「問う」こともまた「答える」ことと同等かそれ以上に重要な営みなのではないかと考えます。

とはいえ、学校教育で「答える力」を徹底的に鍛えられた反面、「問う力」はほとんど鍛えられていないのが現状です。かくいう僕も「問う」のは苦手です。「何か質問ある人?」という問いかけが一番恐ろしいですね笑。まったく思い浮かばないのですから、質問しようがないです。「おつむの出来がね・・・」と言われてしまえばそれまでですが、実際「問う」訓練を受けた経験がないのだから、仕方ない側面もあると思っています。だからこそ、それに気づいた人は、自ら「問う力」を身につけて行く必要があるのだと考えます。

哲学を学ぶ意義

そこで大事になってくるのが「哲学」という営みだと、個人的には考えています。なぜ哲学なのかと言いますと、それは哲学が他の学問よりも、より問うことにこだわっているからです。

もちろん、どんな学問も「問い」つまり「研究テーマ」を立てて、自分なりのロジックに沿って結論を導くプロセスです。ですから、問いを立てない学問は存在しません。全ての学問に問いはあります。その中でもとりわけ「哲学」は、言語という媒体を最大限活用した学問であり、「問うの体系」として今なお強く機能していると考えます。

最近、フッサールの現象学を勉強しているのですが、超ざっくりいうと、理系的な学問(実証科学・経験的な学問)と文系的な学問(精神文化・形而上学的な学問)のすべてを「直接経験」という主観的な体験を原点として基礎づけるという、壮大な構想をもった哲学の潮流の一つです。

哲学にはそういう「途方もなさ」みたいなものがあって、決して終わることなく、永遠に「問い」が続いていきます。このように、歴史の中で連綿と続いてゆく「問い」の営みこそ「哲学」であると、僕は考えています(哲学贔屓な感じですみません)。

というわけで、元々好きな「哲学」ではありますが、哲学の勉強を通じて「問う力」が身についていけると思っています。

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