1.範囲
藤岡訳『全体性と無限』p.350 - p.356
第Ⅲ部 顔と外部性
B 顔と倫理
2 顔と倫理
2.解釈
私が殺したいと唯一望みうるのは「絶対的に自存する存在者」であり「他人」であり「顔」であるという。それは私を「無限に凌駕しており」、私の権能[ pouvoirs ]を麻痺させる。しかしながら、それが私を無限に凌駕するにしても、なぜ私が「殺したい」と望む「唯一の存在」として断言できるのだろうか?
実はこの引用のまえにその説明がなされているのだが、何度読んでも分からなかった。なんとなく感じたのは、顔は「表出」として「感性」に属するものだが、それが倫理的な「抵抗」へと移行する、その変容自体にどうやら関わるようだった。この点については保留する。
私と他人は互いに絶対的に隔離されているわけだが、しかし、場合によっては「闘争」の関係に入ることもある。だが、その「闘争」の関係はけっして暴力にもとづく関係ではない。その関係は、他人の「反応の予見不可能性」にもとづく。
私はもはや他人に対して暴力をふるうことはできない。なぜなら、他人の「超越そのもの」が私を凌駕し、私の権能を麻痺させるからだ。その無限の超越自体が私に対して「汝、殺すなかれ」という原初的な命令を発している。
他人の顔は無限に私を超越し、かつ私の権能を麻痺させる。だから、他人の顔を「殺すことはできない」。しかし、そのような私に対する顔の「超越」ゆえの「殺人の不可能性」は、そのことの否定的な側面を表現しているにすぎない。というのも、顔は「悲惨」「裸性(飢え)」においても私に対して現前するからである。つまり、顔は私に対する「超越」と同時に、悲惨や飢えといった「弱さ」としても現れるのだ。そしてこのことが、私と他者の「近さそのもの」を創設する。
「重きをなす」に相当する部分は、原文だと”s'imposer”とあり、一般的には「~に課す」とか「~を強いる」といった意味である。なぜ「重きをなす」という訳文を当てたのだろうか?そこにある訳者の意図とは何だろうか?
おそらくだが、顔は「表出」「現出」のような表層的な仕方で、単に知覚的に私に現れるのではなく、「悲惨」と「飢え」をまとった、身体をもつ具体的な人間として、私の前に現れるという事態を表現したかったのではないだろうか?「重き」とは肉体の重みであり、初期思想にちかづけていえば、実存するという事実そのものの重みでもある。そう解釈すれば「重きをなす」という訳にも納得できるのではないだろうか。
顔の表出は「重きをなす」=身体をもつ具体的な人間の表れであるとすれば、飢えに苦しむ人間の悲惨な訴えに、その呼び声に、私は何らかの反応を迫られるに違いない。とはいえ、そのような「懇請」に応答せざるをえない私は、自由が制限されているわけではなく、むしろ私の「善性」が呼び起こされる。そのことが私の「自由」を増進するという。
ここでいう「自由」は他者の呼び声に応答することで生まれる「自由」であり、主体性から生じる「自由」の概念とは正反対であるといえる。この文脈ではカントの自由とは対極にあるといってよいかもしれない。
他方、この「自由」が「善性」と結びついている側面を考慮すると、すぐれてカント的であるようにも思われる。カントは、自己の傾向性(感情の傾き)を完全に切り離した状態で、義務的に行為することが最高度に道徳的でありかつ自由であると述べている。つまり、自由と道徳的善が一致しているという点では、レヴィナスはカント的であるのかもしれない。
悲惨と飢えにおいて現れる顔の呼び声に、私たちは応答を迫られる。この呼び声は「言説に参入することを義務づける言説」であり、その声を「聞こうとしない」人も含めたあらゆる人々を参入させる「力」であり、したがってそれは「理性の真の普遍性の基礎」となる。
レヴィナスにとっての「言語」は、存在論以前の次元=倫理的次元で、私と他者が全体に統一されない仕方で、縛られず孤絶する仕方で関係するための「紐帯」である。
3.まとめ
「顔」は私に対して「超越」であると同時に、悲惨と飢えをまとった「弱さ」でもある。この両側面から私は顔=他人の「殺人の不可能性」に導かれていく。そして、この「殺人の不可能性」は「汝、殺すべからず」という原初的言語(=命令)によって表現される。このような他者による「言語」あるいは「発話」によって、私と他者は言説の世界、言い換えれば、縛られず孤絶した状態で関係する「倫理的次元」を生きることができる。