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時間軸

あなたの人生がどれだけ美しいか、あなたは知っていますか?

時間軸を加えた4次元で生きている私達、時間軸を取っ払ったらどんなに質素で味気ない人生になっただろう、と自分の人生を振り返って思いました。

最近はずっとこんな感じで至福の中にいます。やる気がないとかあるとかもなくただその季節が来たので葉は枯れて落ちてそこの大地にいるように、という感覚です。

時間軸を加えたのはさすがですよね。複雑さが広がる人生の奥深さの形成、時間を間違えた時の展開の素晴らしさ、時空のシンクロニシティさ。本当は時間なんて存在しないのに、インプットしたもん勝ちみたいに、インプット情報の通りに脳が動いてくれて、長さに囚われ、単位に囚われ、形に囚われ、順序に囚われ、それは地球にいることの奇跡さと作った創造主の神の凄さ、自分と思い込んでた私たちの在り方の凄さを色濃くします。

私はこれまで真理の探究に勤しんできました。それが好きなことなのでそれをしないではいられませんから、寝る時間も勿体無いしなんなら歯磨きもお風呂も、食事をする時間も勿体無いんです。

とはいえ真理の探究に一段落ついて、人間を体験してる魂(高次の存在)が
観察者をしていた、と分かって、それは万華鏡の中にいた私という表現になります。

万華鏡の中のガラスが現実です
その現実が何者か、または運命かに
くるくる回されていると考えています

自分ではない、だってこんな大変なことになるとは思ってないのに、こんな苦しい体験したいなんて思ってないのに、くるくる回る現実に振り回されて
くるくる回さないでよ!と怒ったり、くるくる回さないでよ!と焦ったり、自分の思う通りくるくる展開してくれないから。ひょっとして万華鏡の配置を変えたら私の思う通りになるのかもしれないと考えて現実に向かって、現実を変えようと必死でした。私はそんなこと意図していないのに、、、だから当然自分ではないと思います。何者かが意地悪している、カルマが意地悪している、過去世が蘇っている、運命の星の下だからなのか。嫌いだった母親の怨念か?嫌いだった宗教団体の怨念か?絶対何かに踊らされている…と思っていました。

でもね、真理を探究していくと
誰かはいないと分かりました。

この世界には
「自分しかいない」と思い出すことに
時間はかかりませんでした。

全部自分が発振したんだ
今しか生きていないんだから
過去も未来もないじゃん、、、て。

真理を探究するにあたって、というか私という存在は真理を探究することが
始めから計画に入っていたので、時間軸をくっつけた地球では複雑にドラマを展開させることにしたのですね。感情や思いをフルに利用して私の人生ドラマは非常に感動的に作ることができました、が適切な表現でしょうか。

私は自分の人生を映画にしたいと思ってます。こんなすごいドラマ見たことないって今なら言えるほどですから。探究する途中は勤しむことも開眼していくことも当たり前で、他のことそっちのけでも人に受け入れられなくても
とにかく自分の設計した真理到達の道までは歩き続けるんだから、試行錯誤がないとドラマは展開しないよね、ってことで何度も何度もテストが宇宙からきます。その度に打ちひしがれたり喜んだりの一喜一憂をしていました。
でもね、そんなこともだんだんしなくなるんです。自分しかいないと分かった後に、セットでやってきたのは「観察者」の私です。

そっか!
私は万華鏡の中で
右往左往していたのか!

万華鏡のガラスに向かって
文句を言い続けてたんだ・・

と分かってゲラゲラ笑うのです。たちまち私の目線は万華鏡のファインダーの位置に移動しました。私が何を思い、何を感じているかを観察して、そこでその感情になるのか!そこでそう反応するのか!面白い!と自分自身をよく見ています。

苛つきたかったらイラついていい
だらけたかったらだらけていい
文句を言いたなら言えばいい
わがまま言いたいなら言っていい
怒りたかったら怒っていい

一切の行いにも発言にも
制限をかけずに
感情を使ってる自分を見てました
覗く私と覗かれる私です。

その二人がいて、
(厳密にはもっといます、それを私たちの脳の範疇ではまだ適切に理解できないので心理学を用いて多重人格などという表現をしているだけです)
真理を探究するために時間(という概念を総量対比すると)をたくさん使いましたが、この世界に自分しかいないんだとわかる時には、時間(という概念を総量対比すると)をほとんどを使ってませんでした。

そのすぐ後(自分しかいないと分かった後)さらに起きてきたことが
覗く私は楽しんでいるってことは鑑賞してるんだね!と分かって

鑑賞しているのか!
そうか〜
鑑賞会を開いてるんだね、毎瞬・・・
すごいそれ!

となりましたもうね、なんとも言えない人生のデザインに敬服しています。
こんなすごいことを計画して本当に歓喜します。全ての体験は鑑賞のためにあったということです。もちろんエゴが大騒ぎします。こんなに、あんなに辛くて狂うほどの苦しい体験してきたのに『え???鑑賞???ってなんだよ、お前ばか?ってね思いたくなりますね』でもね、エゴ視点ではこれまでの人生経験の辻褄が合わないんですよね。

ということで
万華鏡の中から出て
万華鏡のファインダーにいて、
さらに万華鏡全体を見てるのです

時間なんてなかったらもっと上手くできたのにとか、もっとたくさん一緒に居れたのにとか、もっとたくさん笑えたのにとか、もっとなんとかかんとかが出てきませんか?でもこの制限こそが、人生に厚みを作るんだなあと思うのと同時に、

もっとなんとかしてよ!どうにかならないの?という疑問が湧いた時は、疑問と答えもセットで存在しているので、すでに波動領域では答えが出てますからそれを受け取れるのに(時間軸を設けた、つまり高次の自分が楽しむために)すぐに答えを受け取れないのは、人間を楽しんでいるために受け取れる状態になっていないから、受け取れる状態になったら受け取ってね、あなたは受け取れる保証があるからさ、その時にはそれにふさわしいことを起こすからね、というまたこれもゲーム形式になってるということです。

つまり受け取れる状態というのは、高次の自分が答えを渡したがっているということですね。しかし受け取れる状態と制限のある時間軸とは比例していないです。だから時間は制限というモードに過ぎなくて、モードが「マッハ」になったら報われるとか、「超高速」になったらうまくできるとか、頑張ったら報われるとか、もっと楽しめるとか、もっと一緒に居れるとかはないですよね。

時間を意識して生きるのもありだけど時間を意識しないで生きるのもまた得るものが違うので、人間を体験している魂という存在の視点からすると、どちらも体験する価値があるということを思っています。

何をしていても
何もしていなくても
何も持っていなくても
持っていても
どこにいても
あなただけのオリジナルデザインの人生はすごく美しい、ということです。

読んでいただきありがとうございました

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