見出し画像

ミッドナイトゴスペル2話感想・考察〜死と愛について〜


◆気の狂いそうな導入

『悪質なコンピューターウィルスを撒き散らす絵文字に注意』という警告を聞いたにも関わらず、我らがトンデモダメ中年クランシーは前回の大統領の断末魔に絵文字を貼り付けて案の定ウィルスに感染、壊れたシュミレーターによって右手首がモーニングスター、左手首の骨が複雑骨折した様な上半身裸のニワトリ頭という愉快なくらいに薄気味悪い姿でインタビューに向かうのだった…

◆懐かしい香り

さて今回インタビューに向かったのは道化師の惑星。
道化師の果実から生まれた道化師の赤ん坊がいきなりシカだかイヌだかわからない生き物に喰い散らかされる。

けだものフレンズだかなんたらツリーフレンズだか知らんが中途半端に普及したカートゥーンのおかげでカートゥーンアニメ=グロいみたいな認識をお持ちの方が多いかもしれないがそんなことは全く無い。
むしろ内臓撒き散らすくらいやる作品の方が稀有だ。
これぞカートゥーン!と思った方もいたかもしれないがシャブの話もグロもやるミッドナイトゴスペルの様なアニメはカートゥーンの中でも異色という事を認識の隅に置いて欲しい。

ただこの惑星に着く一連の意味不明で理不尽なシーンはアドベンチャータイム(にはここまで露骨なグロ描写はないが)を思い出させるものだった。
後述するが第二話はミッドナイトゴスペルの中でも特にペンデルトン監督の作風がモロに出ているエピソードである。
さて今回のゲストはまさかのシカ犬。
(演じるはA・ラモットとR・マーカス)
喋るのかお前。

公式が告知していたデカい犬と上裸のニワトリ頭という脳味噌が視覚情報を処理できずにバグりそうになったあの画像はこのエピソードだったのだ…先が思いやられる…

◆屠畜場での会話

シカ犬とクランシーは鎮静剤ナマステックス(この名前を覚えておいて欲しい)を打たれ食肉工場へと運ばれていく。
正に食物連鎖。道化師を喰った犬は食肉に。
アドベンチャータイムのフードチェインみたいなエピソードかな?と感づくカートゥーンオタクもいるだろう。

いいえ、今回も宗教と死についてのお話です。


こう見えてシカ犬、友人と父親を癌で失っており、親しい人の死に立ち会う時の心構えについて非常に含蓄のある言葉で語ってくれる。

『死を受け入れることは難しい。』

間違いない。

貴方にとって死とはなんだろうか?
貴方が未だ誰かの死に立ち会ったことがないのなら恐らくシカ犬の言葉は曖昧模糊な言葉に聞こえるだろうし、何度か死に立ち会ったことのある人間ならば知らず知らずにシカ犬と自分を重ねてしまうだろう。

人生で初めて他人の死に触れた時、それは到底受け入れられるものではない。
絶対に認めたくない。思い出して欲しい。
初めて死に立ち会った日のことを。

が、しかし死とは恒久的で日常的なものなのである。自分が生きている限り、他者の死に立ち会い続ける。困ったことに、慣れる。

それを死を受け入れたこと、としていいのかは分からないがシカ犬曰く
『神に降伏したこと』にはなるのだろう。
不可避の死という事象を受け入れざるを得なくなる日がいつか来る。どう足掻こうと。


『死を前にした人間にいずれ元気になれるだなんて声をかけるヤツなんてケツをスライスしてやれ。』


とクランシーはジョークめかして言う。
自分が立ち会った死の中にも家に帰れるだとか、またご飯を食べれるだとか、希望を持たされるだけ持たされて死んだ人間がいた。
自分はその惨たらしい死に方に未だに納得できていないが、この言葉に数年越しに救われた気がする。

そしてシカ犬ごとクランシーは巨大な食肉加工用シュレッダーにかけられて粉々の肉片となった。



死んだ。合掌。
 



第二話       完







肉片は語り続ける。

死を経験して得る死を受け入れるという一種の悟りをマントラだと肉片が称賛するアニメはこの世界でこの作品だけだろう。

さて話が変わってコメディアンが壊れた精神状態を治したらネタの質が落ちる事を恐れる様にシカ犬も禁酒をしてアルコール依存から脱したら、狂った自分でなくなったら良い作品が書けなくなるのではないか?という懸念を持ったことを告白する。

中々心当たりをもつ人間は多いのではないだろうか?自分を例に上げるのも恥ずかしいがかくいう私もそういう不安を持っていたし、現に4年ほど前、鬱病真っ盛りの時に描いていた絵を今描こうとしても描けないと思う。

画像1

画力自体は上がっていたとしても今こんなに怨めしく点描をしようとは思わないしきっとできない。

猛毒のユーカリをコアラが喰い続ける様にネガティブな感情を原動力に創作物に取り組む人間は少なくない。
知ってる方も多いだろう。心理学における『昇華』という防衛機制の一種である。
そして皆一様に負の感情が枯れた時に作品を生み出せなくなるのではないかという懸念を抱く。

死の不安を受け入れることは幸せ、としつつも自分から不安や狂気や惨めさが取り除かれた時、表現者としてつまらなくなるのではないか、という懸念が対になる様な形で提示される。

『元気で幸せになるとつまらなくなる』

という思考をシカ犬は病でありエゴであるとし、クランシーはキリスト教における悪魔だと言う。

そしていきなりキリスト教の話にシフトしていく会話。
あまりにもシームレス過ぎて違和感なく聴き入っている自分が恐ろしい。
ユダヤ人がインドでイエスの愛に気づくだとかイエスと猿神ハヌマーンは同質だとか中々パンチの効いた宗教トークが繰り広げられる中、肉加工で帝国を築き上げた寄生虫とハエを駆る民との戦が始まる…
(我ながら何言ってるか全くわからん)

◆懐かしい音

オーバー・ザ・ガーデンウォールっぽい…
そう思った。ペンデルトン監督の作品でエミー種を受賞した、これも非常に奥深い哀愁漂う名作である。是非見て欲しい。
不気味な寄生虫達はカボチャ達を思い出させるし、ねっとりとしたクラシックカートゥーン調の歌は追い剥ぎの歌を思い出させる。
ハエの騎士の異様に躍動感溢れる作画は必見である。

そんな激闘を全く意に介さない歪な肉塊かく語りき、死とは出産の一部であると。
イエスが屈辱的な死すら愛のために乗り越えた様に出産も愛のための収縮と解放のサイクルであると。


『愛があればどんな痛みも薬に変わる』


意図してかしないでかここでの会話はかなり最終話にリンクする、伏線の様な会話なので何度かリピートしても良いかもしれない。


今回は哲学、宗教学的にも非常に深い話だったし、この話の内容がかなり7話、8話とリンクする非常に重要な回と言える。
また、従来のカートゥーンファンからしてもカートゥーン作品としても見応えがある回なので必見だ。

そしてクランシーが家族の金で動画配信をする44歳というなんだかすごい残念なおっさんだという驚愕の事実が判明する回でもあった。









ハエに啜られていく肉片に感謝と共に『ダンカン』と呼ばれたクランシーは

『ダンカンって誰?』と宙に問う。

そして最終話でダンカンの名を呼ぶのは

私は遊園地にあるパンダの乗り物と同じなので、お金を入れると動きます。さ、お金を入れてぴんくチャンを動かしてみよう!今度はどんなえげつない動きをするかな??