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ウソップのモデルになった海賊、ヘンリー・エヴリーの冒険と影響

はじめに

ヘンリー・エヴリーは、アニメ「ワンピース」の登場人物、ウソップのモデルになったと言われている海賊です。彼は17世紀末にインド洋で大暴れし、世界で最初に「海賊王」と呼ばれた伝説の人物です。彼は多くの船を襲い、インドのムガル帝国の財宝船を奪ったことで名を馳せました。彼はその後、姿をくらまし、その死については不明です。この記事では、彼の冒険と偉業について、時系列に沿って詳しく紹介します。

生い立ちと海軍時代

エヴリーの出自については殆ど知られていません。ジャマイカの裕福な船主の家に生まれたとか、プリマスの宿屋の家に生まれた等様々な説があります。エヴリーは1659年頃に生まれたと推定されています。エヴリーは1689年に初めて記録に現れます。その記録はエヴリーが海軍の候補生として軍艦ルパート号に乗船していたという事実を伝えています。海軍時代には著名なビーチーヘッドの戦いにも従軍していたという記録が残っています。海軍除隊後は結婚し、カンペチェ湾のログウッド運搬船や私掠船で働き奴隷貿易にも携わっていました。

海賊になるまで

エヴリーは1692年に海賊になるきっかけをつかみます。当時、イングランドは同盟関係にあったスペインとの合同事業により、カリブ海へ船団を送りこむ予定でした。しかし、諸事情により計画は延期を重ねることになり、結果的に乗組員の間に不満を募らせることとなりました。エヴリーはこの時、私掠船チャールズ2世号の航海士助手でしたが、賃金の不払いを理由に反乱を起こしました。反乱は成功し、エヴリーは船長に選任され、同時に船名をチャールズ2世からファンシーに改名しました。エヴリーは仲間たちにインド洋で海賊をやることを提案し、賛同を得ました。

海賊史に残る掠奪

エヴリーは西アフリカで活動後インド洋を目指し、マダガスカルやコモロ諸島でクルーの引き抜きと装備の補給を行いました。エヴリーは財宝を求めて紅海のアデン湾に位置するグアルダフィ岬にやってきましたが、そこで偶然、ムガル帝国の船を襲撃するためにこの海域を訪れていた海賊トマス・テューの船団と遭遇しました。目的を同じくする2人は意気投合して2つの海賊団を1つに統合し、エヴリーはその船団を率いることになりました。エヴリー・テュー連合は6隻の船舶に440人の水夫で構成されており、そこにはテューの主船アミティも含まれていました。
合流した海賊団は紅海の入り口を狩場に定めました。まもなく、インドから聖地メッカへの巡礼船団が監視網を破り本国に向ったという報告がもたらされました。エヴリーはすぐさまその船団を追跡し、スラートとムンバイの間の海域で巡礼船ファテー・ムハンマドを捕らえました。ファテー・ムハンマドはムガール帝国の大商人アブドュル・ガフールが所有する船で、5万から6万ポンド相当の財宝を積んでいたとみられています。ファテー・ムハンマドを捕らえたのはテューのアミティ号でしたが、テュー自身は戦闘中に腹に砲弾が直撃して死亡しました。
エヴリーは逃走した船団のうちの1隻であるムガール帝国皇帝アウラングゼーブの船ガンジ=イ=サワイを捕らえました。ガンジ=イ=サワイは700トンの大型船で、80門の大砲と600人の兵士を備えていました。ファンシー号によって船のマストを破壊され航行不能になったガンジ=イ=サワイはエヴリーらに乗り移られて長い戦闘の末に降伏しました。一味は船上で暴虐の限りを尽くし、貞操を破られた女性たちは自殺に追い込まれました。この襲撃により海賊が得た富は32万5000ポンドから60万ポンドと推定されます。これは当時の海軍水兵の給料75年分に相当する金額です。

逃亡と最期

一味はムガール船から略奪した財宝を分配するためインド洋のレユニオン島に向かいました。戦利品の構成は50万枚のコイン、宝石類などであり、これらは全てムガール帝国の皇帝へ贈られるはずだったものでした。財宝の分配率は記録により様々ですが、おおよそ1人あたり1000ポンドほどになりました。18歳以下の船員には1人あたり500ポンド、14歳以下の一部には1人あたり100ポンドが配られました。

財宝の分配が終了した一味は、ポルトガル領のサントメ・プリンシペを経由して、カリブ海のバハマ諸島に位置するエリューセラ島へ向かいました。この地の総督を務めるニコラス・トロットには、ファンシー号はただの奴隷貿易船であると嘯き、入港許可を求めました。トロット自身もその説明を真に受けたとは思えない様子でしたが、エヴリーから入港許可を求められる際に同時に賄賂を渡されていたため、それ以上の追及は行われませんでした。

バハマに入港した海賊団は解散し、一味はそれぞれ世界各地に散らばりました。彼らの行方は様々で、逮捕されて裁判にかけられ絞首刑にされた者もいれば、海賊に戻った者、さらには治安判事になった者までいます。エヴリーのその後については、ヘンリー・ブリッジマンの偽名を名乗ってアイルランドのダンファナイーに逃亡したところまでは分かっています。しかし、イギリス政府と東インド会社からそれぞれ500ポンドの賞金を懸けられていた賞金首だったにもかかわらず、その後の運命に関しては不明です。

エヴリーの最期については、当時から議論が交わされてきました。キャプテン・チャールズ・ジョンソンは著書『海賊史』の中で、エヴリーは略奪品のダイヤモンドを換金しようとしたところ、詐欺師に騙されて最後は自分の棺の代金さえ支払えないほどの貧困の中で死亡したと記述しています。1709年に出版されたオランダ人アドリアン・ファン・ブルックによる架空の伝記では、エヴリーはムガール皇帝の娘と結婚しマダガスカルの王になったという物語が語られています。イギリスの小説家ダニエル・デフォーはこの創作に基づいた作品『海賊王』を出版しています。

影響

ガンジ=イ=サワイ号略奪事件はイングランドとムガール帝国との国際問題に発展しました。ムガール皇帝アウラングゼーブはイングランドの商館を閉鎖し、東インド会社の財産を没収し、イングランド人の商人や職員を拘束しました。東インド会社はエヴリーとその仲間を捕らえるために多額の賞金をかけ、イングランド政府にも圧力をかけました。イングランド政府は1696年に海賊法を制定し、海賊行為を死刑に処することを定めました。また、海賊の捕縛に協力した者には恩赦や報奨金を与えることを公布しました。しかし、エヴリーとその仲間の大半は捕まらず、ムガール帝国との関係は悪化の一途をたどりました。
エヴリーの活躍は当時の人々に大きな影響を与えました。彼は海賊の英雄として多くの物語や伝説の題材になりました。彼の略奪した財宝は「エヴリーの宝」と呼ばれ、今もなお探されています。彼の名前は様々な文化作品に登場し、海賊のロマンを象徴する存在となっています。彼はまた、海賊の黄金時代の幕開けとも言われており、彼に憧れて海賊になった者も少なくありませんでした。

おわりに

ヘンリー・エヴリーは、海賊の歴史において最も有名で影響力のある人物の一人です。彼はインド洋で大規模な掠奪を行い、ムガール帝国とイングランドの関係に深刻な影響を与えました。彼はまた、海賊の黄金時代の幕開けとも言われ、多くの物語や伝説の題材になりました。彼の最期は謎に包まれており、彼の略奪した財宝は今もなお探されています。彼は海賊のロマンを象徴する存在として、今もなお私たちの想像力を刺激しています。この記事では、彼の生涯と業績について、時系列に沿って詳しく紹介しました。彼の冒険と偉業に興味を持った方は、ぜひ彼の関連する作品を読んでみてください。彼の世界に引き込まれることでしょう。

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