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まる・さんかく・しかく考

こんな歌がある。

まるさんかくしかく まるさんかくしかく みっつのほしがあったとさ
うちゅうのはての まだむこう まだむこう まだむこう

コロコロふとった まんまるじんは まるいつくえに まるいイス
まるいおへやで とびはねりゃ まるいおうちが ころげだす

トンガリあたまの さんかくじんは さんかくまどの さんかくテント
さんかくベッドで ねているが さんかくまくらが ちとこまる
(中略)
オカッパあたまのしかくじんは しかくいさかみち しかくやま
しかくいくるまで ドライブだけど しかくいタイヤが まわらない
(後略)

 幼い頃に見ていた子供向け番組の中で流れていた歌を、自分に子どもが生まれたのをきっかけに改めて聴いてみると、単純な歌詞の中に案外深い含蓄が込められているのではないかと思い始めた。
 言語や語彙は人間が混沌とした世界を理解する際のフィルターのようなものである。言い換えれば、人間は言語というフィルターを通過することで人間にとって認識しやすい形に切り分けられた世界の断片を見ている。
 フィルターの目の疎密はその言語を用いる者の語彙や知識、経験によって左右される。語彙や知識、経験が乏しければ、その者の前に現れる世界は粗いフィルターで大雑把に切り分けられたものになるし、語彙や知識が豊かであればそれだけ細かく切り分けられたものになる。そのため、語彙や知識、経験の乏しい者と豊かな者とが意思疎通を図る際には、互いに同じ言語を用いているからといって、世界認識が共通しているとは限らない。
 また、この「フィルター」は、言語によって異なる性質を持っている。ソシュールやレヴィ=ストロースによって明らかにされた、外見上同じに見える世界であっても言語が異なれば認識も異なるという言語観になぞらえて言えば、あるフィルターを通過した世界は丸い形に切り分けられるが、別のフィルターでは三角に、また別のフィルターでは四角く切り分けられるということだ。日本語で「うし」と呼ばれる生き物を英語では「ox」、「cow」と雌雄によって呼び分けたり、日本語で「こめ」「いね」「めし」などと呼び分けられるものを英語では「rice」一語で表すことができたりするのも、世界をどのフィルターにかけたかによって認識に違いが出ることの好例である。このフィルターの性質の違いは、それを用いる民族の文化の違いそのものであると言って差し支えない。騎馬、狩猟民族にルーツを持つ英語が雄牛と雌牛を区別し、稲作と深い関わりを持つ日本語が稲と米を区別するのは、共に文化的な必要性によるものだからだ。
 このように考えると、日本人というのは実に奇妙な構造をしたフィルターを使っている民族である。漢字伝来以前の日本で用いられていたやまとことば、漢字伝来とともに用いられるようになった漢語、そして、西洋化の中で漢字を駆使して作られた西洋語翻訳語。これらは本来、すべて固有の形をしたフィルターである。具体的に言えば、世界を丸く切り分けるフィルター、三角に切り分けるフィルター、四角く切り分けるフィルターという風に、それぞれ異なるフィルターである。日本人は、非常に器用な(と私には感じられる)ことに、この三つの本来ばらばらであったフィルターを重ね、相互に連携させながら用いているのだ。この複合フィルターによって切り分けられる世界は、丸いが丸くなく、三角だが三角でなく、四角いが四角くない。時に日本人自身をも混乱させるこうした世界認識の方法は、外国人にとって時に日本人がミステリアスで奇異な民族に映ることと無関係ではないように思われる。
 このような感覚を抱いている私にとって、昨今話題に上ることの多い「高校生の古典嫌い」はたいへん憂慮すべきことだ。現代のグローバル化が進んだ社会を生きる上では、確かに、現代文の学習で西洋語翻訳語による論理的な思考を磨いた上で、西洋語翻訳語の根っこである英語の学習に力を割くことが優先されがちになるのは仕方のないことだと思う。しかし、日本人の論理的思考を支える西洋語翻訳語の多くは、やまとことばと漢語、その両方に精通した明治初期の知識人たちによって生み出されたと言われている。すなわち、日本人が日本人的な文化や価値を持ちつつ論理的であるためには、やまとことば思考や漢語思考の上に、西洋語翻訳語思考を積み上げる必要があるということだ。(ちなみに、日本は中国から漢字という優れた文字体系を借り受けるという多大な恩恵を受けたが、中国は日本の知識人たちが生み出した西洋語翻訳語を逆輸入するという形で恩返しを受けている)。英語講師の横山雅彦氏は、「『論理的(ロジカル)』は『英語的』と同義の言葉だ」と述べている(『高校生のための論理トレーニング入門』)。ならば、もし古文や漢文を学ばずに現代文の学習のみで論理的思考を身に付けたいと思うのなら、最初から日本語を捨てて英語のみを用いるようにしたほうがよほど手っ取り早い。それをしないのは、四角いレンガを積み上げるように論理的な思考を働かせるだけでは見えない世界があるからではないのか。やや曖昧さを残しながらもまるくやわらかく世のなかをを切り取るやまとことばによる思考。「形・音・義(いみ)」の三角形を一文字の中で表現し、少ない文字数で大量の情報伝達を可能にする漢語思考。この二つの異なる思考様式の上に、四角いレンガを積み上げる西洋語翻訳語思考を獲得したことにこそ、日本人の独自性があると言わねばならない。(たとえばアジア各国の状況に目を向ければ、学校の教科書はすべて英語で書かれていて、日常生活では母語を用いているという国も少なくない。日本は、大学教育までを一貫して母語で行える世界でも数少ない国の一つなのだ。そのおかげか、日本のノーベル賞受賞者数は世界で十位以内だし、アジア諸国の中では群を抜いている。)
 幼いころ私は、冒頭に紹介した歌を歌いながら、「まんまる人はなんで四角い家を建てないのか、さんかく人はなんで四角いまくらを使わないのか、しかく人はなんで丸いタイヤを思いつかないのか。みんなバカだなぁ」と子ども心に感じていたように思う。この「みんなバカだなぁ」という感覚は、言い換えれば「まる、さんかく、しかくにはそれぞれ一長一短があるということを理解している」ということではないのか。いま、高等学校で国語を教えている私は、このことを「やまとことば思考、漢語思考、西洋語翻訳語思考の三つをバランス良く身に付けることの大切さ」へと読み替えたい。すべての思考様式に、強みと限界がある。そして、現代のグローバル化が進んだ世界は、西洋語の価値観が優勢になって作り上げられた世界である。確かに暮らしは便利になり、一部の国の人々は非常に豊かになった。しかし、その一方で地球規模の環境破壊や貧富の格差といった問題も山積している。これを「四角いタイヤが回らない」状況と言ってしまうのは言い過ぎだろうか。その中にあって、日本人である私たちにできることは何だろうか。
 この時勢にあって、次世代を担う日本の若者たちが英語を学ばないという選択肢はもはや現実的ではない。しかし、日本に生まれながら古典を学ばないという選択肢も、それと同じくらいあり得ないのではないかと、私は思うのだ。

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