文化人類学の調査地について
私は文化人類学を専門とし、メキシコを調査地としている。ここでは私見を述べているので、「そんな考えもある」程度に目を通していただければ幸いである。
文化人類学において、「知らない人の、知らない生き方を知りたい」という好奇心はとても大切なものである。それを知るには、その「知らない人」と、なるべく長い間、一緒にいなければならない。
その知らない人の生き方に、ある法則性を見つけた時、つまり、「こういう時にはこうなる」「こういう理由でこうなる」を見出せた時には、とても大きな喜びがある。
しかし、なかなか、それが実現できる場所に出会えないかもしれない。出会えるかどうかわからないまま、遠い調査地へ行くこともある。そして、出会えないか、出会えているのにそれがわからない、ということもある。
アフリカを調査地する、ある人類学者が、ある村にしばらく滞在してしばらく経った後、実は、村人同士で、「あいつ(調査者)には嘘をつこう」と相談して決めていたことに気づき、その村を去らざるを得なかったというエッセイを読んだことがある。「嘘をつこうと決められていた」とは、たいへんなショックだったであろう。これは、調査地での人間関係や、調査がうまくいかないこともあることを示している。もっとも、さらに長くその村に滞在していたら、嘘と誠のズレがわかったかもしれないが、ひとつの場所にこだわらなくてもいい、という考えもある。
1989年、メキシコにおける私の最初の調査地選びはうまくいかなかった。気候も合わず、雰囲気に親しみを持てなかった。体調も崩した。それを自分の能力不足のせいだと思い、数ヶ月その場所にしがみついていた。しかし、たまたま国際学会でお会いした日本人の研究者に、「もっといろいろなところを見てから考えなさい」とのアドバイスを受けた。それを聞いて、私は、日本にいる時に「書籍と想像力」だけで決めた調査地を離れ、あちらこちらへとメキシコ国内のバス旅をした。そして、そのあと10年以上関わる村と出会ったのである。最初の調査予定地とは全く異なる場所であった。当時、まだインターネットも携帯電話も普及していなかった。今なら、「自分に合うかもしれない場所」をもう少し早く探せるのかもしれない。それでも、行ってみたら、うまくいかないかもしれない。
私がここで述べたいのは、文化人類学では(他の学問でもそうであろうが)、最初の計画通りいかなくても、しかたないということである。現地の人との関わりが大事であり、長期滞在できる条件が整うかどうかも肝心であるので、それがうまくいかない場合、「とりあえず」あきらめてもいい。10年後の自分は変化しており、いつかまた、その場所と、また別のご縁があるかもしれないのである。そうゆるく考え、「絶対に計画通りでなければならない」というこだわりは持たなくていい。
最初からそれなりにうまくいく人というのは、多くの場合、その調査地やその周辺で先に調査した人などの支援を受けて、ある程度の環境を整えられる人である。自分がそうではない場合、柔軟な態度でいればいいのである。もし資金を得られず、あるいは家族や健康上の理由で海外に長くいられない場合は、調査地はとりあえず「近所」でもいいのである。国内に、私たちが知らない生き方をしている人はたくさんいる。そこで研究者としての経験を積んで、またいつか、条件が整ったら、遠くへ行けばいいのである。海外を最初の調査地にする絶対的な理由は特にない。もちろん、文化人類学には、好奇心や「ときめき」、意外性が大事である。しかし、近所をよく見て欲しい。きっとときめく場所があるはずだ。