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2020/01/21 書くことを「指導」する

以前出講していた女子大で「文章表現」という講座を数年担当した。前年度までのシラバスを参考にして、教科書指定をして年間の授業を組み立てた。しかし、自分であれこれ勉強して準備するとはいえど、経験としてはそれまでの中高でのわずかな経験のみだったので、悪戦苦闘、試行錯誤の繰り返しだった。「文章表現」講座での経験は、その後の中高での文章指導で役に立ったけれど、依然として自己流の部分が大きい。書くことの指導は難しい。

教員の仕事は、アナログであれデジタルであれ、書くこととは切っても切り離せない。国語科の人間であればなおのことだ。新しい学習指導要領のことを考えると、今後その比重はさらに増すだろう。だから、広義の「書くこと」について意識的にならざるを得ない。

「書き方」であれば、教室単位であらましを伝えることはできる。ところが、個別に書かれたものに対する指導となると困ってしまう。ある程度までは推敲のポイントを提示することで、書き手自身で対応ができる。でも、その域に達せず、書くことに苦手意識を強く持っている生徒の場合だと、そもそもの文章がおぼつかない。「書けない」生徒が書けるようになるには、どうすればよいのか。

ずっと自分の課題の一つとして「書くこと」がある。
よりよくあるためには、自分自身が読むことと書くこととを続けることも必要で、このnoteもそのひとつだ。一方で、独学で本を読んで書き方や指導法を考えることにも限界があるので、別の方法も考える必要だ。わたし個人の問題だけでなく、勤務校の国語科としての課題でもあると考えている。(全体でどうこう言う前に、まずは自分からという感じだ。)

手掛かりが欲しくて、勤務校の系列大学に設けられている「ライティングセンター」を訪ね、取組みの様子などを詳しく教えていただいた。
このライティングセンターは、学生の「書く力」をサポートする部署だ。レポートをはじめとする各種書類を書きあぐねている学生に対して、担当教員が予約制の面談形式で指導を行っている。学部生による学生チューターもいるので、彼らの力を借りることもできる。

今日一番の学びは、書くことについての学生(生徒)との関わりの、そもそもの前提についての気づきを得たことだ。

ここまでわたしは「文章指導」や「指導」という言葉を使ったきた。ライティングセンターでは「学生の文章を添削しない」ことを一つの特色としていることに対して、「どうやって指導しているのか」と疑問に思っていた。実際にお話を伺ってみると、そもそも「指導」をしないのだということが分かった。

添削をすると、目の前の文章は磨かれるのでよいものができる。しかし、書き手が自分の力で直さないのであれば、結果的に書き手自身は育たない。だから、対話をすることで、教員やチューターは書き手である学生に寄り添い、気づきを促すのだという。

もちろんこれはライティングセンターの方針であって、ひとクラス30名の日本語表現科目では添削を行なっている。授業とライティングセンターとが相互補完的に動いているというのが実際だ。だから、これまで国語科の教員がやってきたことを二つに分けて取り組んでいるということだ。希望者に対する添削指導なら、教員が一人で対応できるけれど、生徒全員(少なくともクラス全員)を対象とした指導ならば、大学のような分業も必要かもしれない。

感心したのは、大学院生ではなく学部生の学生チューターを置くこと。チューター自身も学生との対話を通して成長する仕組みにしてあるという。そのために、チューターにはディスコースマーカーと対話を軸にした研修を行い、学生にも早い段階でディスコースマーカーを授業で教える。そうすることで、互いに見るべきポイントが分かり、対話がスムーズになるそうだ。これは中高でも普段の授業ですぐに取り入れられる。

取り組みとしては特別に新しいことではないけれど、個人や一授業のものではなく大学の仕組みとして整っていることと、一つずつの課題の設定の仕方に様々な工夫が凝らされていることとに、考えるヒントをいただいた。

お話を伺った先生はたくさんの資料をわけてくださった。本当によくしていただいた。ありがたい。今日いただいた資料には読むべき論文も含まれるし、勉強すべきことを探す部分も多分にある。だから、これからどう自分が取り組むかはまだ見えていないところが多いけれど、考えながら走ろう。

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