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2019/11/21 聞き手あってこそ

教員の仕事は色々あれど、一番大事なのは授業だ。その授業というのは、毎日何時間も40人あまりの人を前にしてあれこれ話すもので、何が普通か一般的かはともかく、変わった仕事の一つと言えるかもしれない。

そんな仕事を何年にもわたり毎日続けていながら、うまくいったと感じたことはほとんどない。「ない」と断言してもよいかもしれない。なぜなら、どんなに工夫を凝らしても、何かしら改善の余地は残るし、その授業に参加している生徒全員に届けきったという実感も得難いからだ。(そもそも「全員」というのが幻想でしかないと分かっていても。)

もちろん授業の出来不出来は、教員の技量に因って決まるのだが、「ライブ」であるだけに参加する生徒に因るところも大きい。とはいえ、それも結局は教員次第でそれなりにどうにかなることだ。そう思うからこそ、試行錯誤を繰り返す。それは、高千穂は天安河原で祈っていたはずが、賽の河原で石を積んでいたということの連続であったりもする。

だからこそ、参加してくれる生徒がよき聞き手でいてくれることのありがたさを感じる。

今朝twitterで「聞き手の姿勢」に触れたつぶやきをいくつか見かけた。こればかりは、まじめに大勢の人を前にして話す経験をしていないと実は理解するのが難しいのかもしれない。

目の前ににこやかに相槌を打ってくれる生徒がいる心強さといったら!わたしは、折を見てそういう生徒にはお礼を言うようにしている。自分の自然な振舞いについてお礼を言われるので、相手は大抵きょとんとする。それでもお礼を言いたくなるほど、話し手にとってはありがたいことなのだ。

今日は、自分の授業のありかたに助言をもらうために上司(数学科)に見学に来てもらった。いつもと同じ授業だけれど、やはり少し教室の空気は変わる。(全員ではないからこそ)いつも通り授業を受けてくれる生徒、1時間しっかりと見てくれる上司、聞き手の存在があってこそだと改めて感じた。

※冒頭の写真は、授業後に生徒から渡されたペンギン的な何か。

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