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理系も文系もない世界

最近、田原真人さんの
『出現する参加型社会』を読み、
読書会に参加したり、主催したりと
いった活動を重ねてきた。
その第一章が、特に興味深い内容
なのだが、なぜそこまで興味深いと
感じるのか、整理しきれていなかった
ような気がする。

そんな折に、読売新聞の記事で、
名古屋大学教授・隠岐さや香氏の
インタビュー記事を読む機会を得て、
デジャヴュ(既視感)というか、
何か大切なことを言ってくれている、
そんな感覚を抱いた。

氏の主張の要旨をまとめてみると、
概ね以下のようになる。

学問領域の文系と理系への分化は、学問の専門化と並行して進んだ。まず自然科学が専門分化し、やがて社会科学の概念が生まれ、さらに人文科学がまとまっていった。

西洋で起こったこれらの概念を、日本は明治時代に一式まとめて取り入れた。日本は元々文理を分けない世界観だったが、西洋の概念が新鮮で、それらを効率的に取り入れる教育制度を作った。その後、戦後の経済成長、大学進学率上昇と相まって、受験科目として文理を分けて効率的に教えることが定着した。

時代が進み、文理にとらわれずあらゆる視野から考えることが求められ、文理融合型の学部ができたり、教養重視が打ち出される傾向へとつながっている。
日本の教育システムは、一度文系か理系かを選ぶとやり直しがきかない点で独特で、学生のアイデンティティーと結び付いてしまっている。
学ぶべきことが高度化し、世界で高学歴化が進む今、遅いタイミングで専門分野を学ぶことがもっとなされてよい。


先日の読書会では、田原さんが、
物理学の前提は、全てが「説明可能」、
つまりは「語り得る」もの
である、
という話から入りつつ、「語り得ぬ」
ものとどう向き合うか、という深遠な
テーマで議論
が行われた。

最先端の量子力学では、観測者の
存在が観測結果に影響を与えるという
従来の物理学の常識からは考えにくい
ことが起こる
という。
この話が、華厳経の話に類似している
というような話も出た。

華厳経とは、釈迦の悟りの内容を示して
いる
とも言われる、仏教典の一つ。
宗教に関することは、当然ながら
学問分野としては人文科学の類だが、
それが物理の最先端の話とつながると
いうのが面白い。

学問も、極めていくと、やがて文系も
理系もない
、そんな地平が広がっている
という感覚が得られたわけだが、
これは正に同書の第一章を読んで
得られた感覚の再現であった。

そして、読売新聞で隠岐教授が語って
いる内容、これもまた同じことを私に
訴えている、そう感じたのである。

自分は数学が苦手で、根っから文系。
そんな自分のアイデンティティーに
固執するのはそろそろやめなければ
なるまい。
そして、興味ある事柄に貪欲に挑み、
生涯学び続けるように、そう背中を
押されている
と解釈し、実際の行動
に反映していくことにする。



己に磨きをかけるための投資に回させていただき、よりよい記事を創作し続けるべく精進致します。