母の友人がワクチンとコロナウイルスの陰謀論者になってしまった件について

 母の友人がワクチンとコロナウイルスの陰謀論者になってしまった。母が言うには真面目で、母よりも賢い子だったという。母を含めた8人のライングループで、コロナウイルスが存在しないという文章が書かれたリンクを貼ったのを皮切りに、次々とnoteなどに書かれた怪文書のリンクを貼るようになったという。
 リンクの内容は惨憺たるモノだった。コロナの致死率を全日本国民の人口を分母に計算して表して脅威を矮小化したものだったり、内海聡や得体の知れない外科医の反ワクチン本をソースにしたりと、医学に関して門外漢の私でさえバカバカしいと思う内容が大半であった。
 ここまでは私の有していた陰謀論者のイメージとは何ら変わりはなかった。意味不明で論理の欠片もないデマを無作為に飛ばし、周囲の人々を見下し迷惑をかける。一方的で主観的なものの見方しかできず、傲慢かつ無知蒙昧な人々。少なくとも実際のLINEの内容を見る前は、リンクを貼りながら、母らを侮辱する激昂した猿のような存在をイメージしていた。
 だが、実際のLINEグループ内のその友人との会話は、やや想像していたのとは異なる内容であった。最低限の意思疎通はできていた。ほとんど一方的な内容ではあったが、母やその他友人の発したLINEには逐一返信を行なっており、決して罵倒をしたり奇怪な絵文字を使った文章は送っていなかった。
 一番、驚いたのは、明確にその友人がワクチン擁護の話を聞くと述べていた事である。あなた達のワクチンに対する見方を知りたいので、私の発言に対して何でも意見が欲しいという旨が極めて丁寧な口調で書かれていた。
 当然、こんな事は無意味である。何の医学知識も持たない底辺短大卒の一地方公務員(残業マシマシ疲労多め)が、ワクチンやコロナウイルスの真実など見抜ける訳がない。ワクチンの危険性などは最低限の医学知識や感染症の実戦経験を備えた人にしか見抜けない事であり、だからこそ専門家であったり医師免許だったりが存在している。餅は餅屋なのだ。


 母の友人の論理は完全に破綻していた。ワクチンは利権だとのたまい、私はワクチンは打たないと声高に宣言する。陰謀論と呼ばれることをバカにされていると認識する。通常、私たちが参考するデータは根拠なく改竄されていると発言しながら、自分たちのソースとするデータは疑いの余地がないと主張する。
 だが人格までは完全に破綻していなかった。巷で言われるような、人を頭ごなしに否定したり、小馬鹿にするような態度はてんで見られなかった。母やその他友人と話す時には、その人の家族の健康を心配したり、長所を述べたりしていた。たとえワクチンを擁護する考えを持っていると述べても、家族や自分の健康を意識していると敬意を示す素振りすらあった。そこにあったのは少なくとも、母の友人と言えるべき人であり、通常の人格を兼ね備えた人のように見えた。
 だからだろうか、母もその他友人も決して、彼女の意見を責める事はしなかった。少なくとも自分や家族がワクチンを打とうと考えている事を述べたり、彼女がワクチンの事や私たちを慮っている事に敬意を示す内容のものがほとんどであった。彼女の反駁を恐れたのか、それとも友人を傷つけるのが怖かったのか。何にせよ、母やその他友人も踏み込んだ発言は意図的に避けていた。
 結果として彼女はLINEグループを自主的に退会することになった。理由は対話をする必要がないと分かったからと書かれていた。決して母やその他の友人らを侮辱しなかったが、自分自身の発言に対して真摯に向き合ってくれなかった事を不満に思っての退会であったのは、それとなく臭わせる文章であった。

 Twitterやニュース記事に載るような陰謀論者はインパクトが強めに描かれがちである。対話不能かつ理解不能。異なる次元に生きているかのように扱われる。それがある意味、反ワクチンなどの派閥の勢力の力を削いだり、ワクチンやコロナウイルスの情報の絶対性を確立するのに役に立っている。そして何よりウケが良く、面白く小馬鹿にしやすい。
 しかしこうした過剰な悪魔化が果たして、もしあなたの友人や家族がコロナやワクチンの陰謀論者になった時、何の役に立とうか。たとえ対話が可能な状況であっても、持つべき言葉やかけるべき言葉を浮かべる事はできないだろう。今、私たちが陰謀論に溺れる人にできるのは、指を加えて見捨てるか排除することだけであり、藁を浮かべることもままならない。
 少なくとも私は陰謀論者に対する見方を変えた。彼女はリンクを貼って以来、陰謀論者であったし、終始、母の友人であり続けた。決してどちらか一方であったわけではない。常に両方の属性を兼ね備えていた。そして彼女は社会から切り離された存在でもなく、極々普通の地方公務員であった。もし、適切な対処をもって母が何かしらのアクションを浮かべていたら、友人を一人失う事はなかったのではないかと、思わざるをえない。
 陰謀論者はフランツカフカの「変身」のように唐突に化けて成るのではない。次第に時間をかけて、誤った情報を蓄積した結果になる者であって、彼ら彼女らは私たちの延長線上にいる存在なのだ。誰だって信じたい事は信じたい、信じたくない事は信じたくないという欲望は胸に秘めている。それが一つの形として現れたのが陰謀を信じる事だと私は思うのだ。
 いつか私たちも陰謀論者になるかもしれない。そうした時に、自分が有する不安や疑いを誰にも伝える事ができないまま、ただただ一方的に排除されるのは、果たして正しい社会のあり方と言えるのだろうか。今、私たちに必要なのは陰謀論を嘲笑したり罵倒する事ではなく、適切に向かい合う事だと思った次第である。

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