Azuma@書き出し者

僕の心のホントの声をnoteに綴ることで、読んでくれた誰かに少し寄り添えますように。

Azuma@書き出し者

僕の心のホントの声をnoteに綴ることで、読んでくれた誰かに少し寄り添えますように。

最近の記事

妻は掌の上で僕を転がさない

妻は優秀である。 世の中に転がっているハウトゥーを読めば、 こんなに単純な旦那を操ることは造作もないハズである。 〇〇が得意だよね とか 〇〇ができてステキだよね とか 褒められれば富士山を3回登頂できるくらいに行動しちゃうタイプの僕は、相当掌の上で転がしやすかろう。 なのに、僕の妻はそれをしない。 お世辞を言わない。 意図的なことも思わせぶりなことも言わない。 あくまでも妻が思ったことしか言わない。 思ってもいないことを言うのはおかしい、だとか。 言うだけタダ

    • 夫婦喧嘩の中に眠る宝探し

      と言いつつ、 だそうで。 要するに関わってくると余計なことしか起きない…ということで お前キライと言われているか、 スーパー矛盾していること言われているわけです。 相手にとって出口のない不満しか言わない人には関わらない、放置、というのも良いですが、 自分の糧になる部分があるのなら、その場での言い争いを避けて、人に話したり一人になって落ち着いて言葉を拾っていこうと努力するのもアリかとどこか他人事に思っていました。 だけれども、紙に書き出しつつ、学ぶべきところはなんだろ

      • 僕の人生は博打。一と八どちらが出ても勝ち。

        絶賛試験直前である。 今週末に控えている試験に火をつけるべく、お気に入りの場所でお気に入りの音楽を聞いて勉強している。 僕は堅実な奴で、この勉強みたいなコツコツ努力が実を結んできた人生だった。 いつから堅実な奴だと錯覚していた? … 例によって他人に簡単に説明するうちに美談だったりまとまった話だったりを提供するようになって、自分で自分がそうであると錯乱したようである。 よくよく考えなくても、 僕の人生は博打に勝ってきた人生である。 なんとなくお分かりの通り、ここで

        • 誘惑に負ける辛さから逃れる方法

          資格勉強中の自分へ。 おつかれさま。 いつもTwitterやYouTubeといった易き誘惑に負けて、 自分の自制心のなさに打ちひしがれているでしょう。 いつもそんなことを感じて生活していると、 いつの間にか自分を責めてしまって辛くはないですか。 辛さから逃れるには2つの方法があります。 1つは、頑張ってやっていることをやめることです。 易きに逃れられるということは、今、目の前のことが自分にとって大変重要ではないということです。 そもそも頑張ってやらなくていいんで

        妻は掌の上で僕を転がさない

          言いたいこと言うの?

          「言いたいことは直接言わないと」 だそうです。 今日は「言いたいことを言う」から繋がる、自分の価値観との向き合い方。 まぁ言いたいこと言ってないよね自分が子供の頃、両親、親戚、友達、近所の人、ほとんど皆、建前で日常を送ってた。 言い換えれば、他人がいる前では平静を装って我慢し、内輪になったときにだけ毒を吐く、息を抜く。 少し目立ちたがり屋だった僕は、ちょっとだけとんがった行動をしたり、頭の良い行動をしたりして、注目を集めるのが得意だったけど、 「恥ずかしくないの?」と

          言いたいこと言うの?

          真のエンジンがかかったとき、音は限りなく静かで。

          行動的になれと急かす夏が終わり、物想いにふけるなら今ぞと促す秋。 もっと情熱があったはず。 もっとエネルギーが湧いてたはず。 どうしてかもわからないが心が曇っている。重たい。 天高い透明な空とは裏腹である ……というのがほんの1ヶ月前とか2ヶ月前。 今は、じんわりと暖かい冬を迎えている。 劇的に行動的に、情熱的に戻ったということはない。 むしろ、それが僕には不自然で、不協和音を奏でている、作り上げた存在だったんだと認められる僕になれた。 「共依存では?」ある日、

          真のエンジンがかかったとき、音は限りなく静かで。

          相手は自分の鏡というけれど。

          相手は自分の鏡、と聞いたことがある。 聞いたときはそうだねぇとしか思ってなかったけど、 自分を少しだけよくする、自分が少しだけ幸せになるきっかけがあると最近ようやく気づいた。 自分の無意識というか本能的な思いを見直してみたら。意識的な行動は5%程度で、ほとんどの行動や現状は自分の無意識が表面化している結果だとかなんだとか。 そして自分がどんなに人を見下してしまっているかもわかってしまった。 いや、もちろん人を見下して生きてなんかいない。 「それぞれいろんな生き方がある」

          相手は自分の鏡というけれど。