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【映画エッセイ小説】~夢のミニシアターへようこそ~ 第2話 旅する女
「ええと、悩みを相談できる映画館はこちらですか?」
平日の夜。チケット売り場に立っていると、40歳過ぎくらいの女性からいきなりそう尋ねられた。あれれ、いつからそんな話になったのだろう。でも、わがミニシアター「アルケミイ・シネマ」が評判になるのは喜ばしいことだ、と思い直して、光田影一郎(こうだ・えいいちろう)はこう答えた。
「相談というか、映画が終わった後にお客様と語り合う時間を設けておりますので、その場ではなんでもお話しいただいて結構です」
そう言うと女性は安心した顔になって、
「よかった。じゃ、まずは映画を観たらいいんですね?」
と、バッグから財布を取り出しながら言った。
「はい。女性は1300円です」
「レディースデイですか?」
「当館は毎日がレディースデイです。外の世界は毎日がメンズデーですからね」
影一郎がそう言うと女性はちょっと驚いたようだったが、すぐに笑顔になった。
「あの、実は私、今日の映画のこと全然知らなくて。どんな映画なんでしょう?」
「『旅する女 シャーリー・バレンタイン』、1989年のイギリス映画です。夫と喧嘩した平凡な主婦が、家を飛び出してギリシャ旅行に行って、そこで恋のロマンスに出会うという話ですよ」
「へえ、面白そう」
「間もなく上映開始です。それではまた、上映終了後にお会いしましょう」
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「映画はどうでしたか?」
影一郎が、さっきの女性に声をかけた。平日のせいか、今夜も観客は彼女ひとりだけだった。
「面白かったです。なんか今の私の境遇とちょっと重なっちゃって」
女性は、ゆるくパーマがかかった短めの髪に手をやりながら、照れくさそうにそう言った。
「何かお話ししたいことがおありだったんですよね。では、あちらのバーで飲み物でも飲みながら少しお話ししましょうか」
ふたりは劇場の隅にあるカウンター・バーを挟んで向かい合った。
「私は会田里沙といいます。パート主婦です」
里沙はそう自己紹介したあとに続けた。
「映画、面白かったです。シャーリーの夫って、うちの旦那にちょっと似てるところがあって。私が台所で一生懸命夕飯を作っていても、自分はソファに寝っ転がって立ち上がろうともしないんですよ。テーブル拭いてお茶碗並べるくらいはしてくれてもいいのに」
「男性にはありがちな態度ですねえ。会田さんも外で働いてらっしゃるのに。それに、お子さんのお世話もあるのでは?」
「ええ、中学生の息子がひとり。それにしても……」
それから里沙は、心に溜まったモヤモヤを吐き出すように話し始めた。
「家事についてはほんと、いろいろ納得いかなくて。たとえばゴミ出しにしたって、頼めば夫が出勤途中に出して行ってはくれますけど、ただ出すだけじゃダメですよね! ゴミの曜日を覚えて、自治体ごとに決められた分別方法を理解した上で、その通りに分別して袋にまとめて出す。その一連の作業が本当のゴミ出しじゃないですか。そういうことが全然わかってないし、わかろうともしないんですよ。ガキの使いじゃないっての!」
ひと息に言うと、里沙はついエスカレートしてしまったことに気づいて顔を赤らめた。
「す、すみません。ついグチを言ってしまって。光田さんって見るからに優しそうだからつい」
光田は苦笑しながら言った。
「いやいや、かまいませんよ。人間、たまには発散することも必要ですから」
落ち着きを取り戻した里沙は、ため息をつきながら言った。
「でもねえ、パートの私は会社員の夫より立場的に下だから仕方ない、と思ってしまっているところがあって。だから映画のシャーリーみたいに、思い切った強い態度には出られないんですよね」
少し考えてから、影一郎が言った。
「今の日本社会には、経済的弱者が家事を担って当然、という考えが厳然としてありますが、女性の賃金が低いのは社会構造上そうなっているわけですから、強者も弱者もなく家事は公平に分担すべきだと思いますけどね」
里沙が目を見張った。
「男性でそういう考えの人って珍しいですね」
「私はフェミニストを目指しているんですよ。大好きなアーティスト、ジョン・レノンの晩年を見習ってね。というか、男性がもっと率先してフェミニストにならないことには男尊女卑社会は変わらないと思うんです。男女平等社会のほうが、男性だってずっと生きやすくなるはずなのに」
影一郎の言葉に大きくうなずいた里沙だったが、ちょっと心配そうにこう聞いた。
「女性でさえ、私はフェミニストです、なんて言ったらイケすかない女扱いされるのに、男性がフェミニスト宣言なんかしたら周囲が敵になりませんか?」
「そうなるのかな? こうしてひとりで商売しているとあまり感じないですが、逆に言うと、男性優位を喜ぶホモソーシャルな人たちが煩わしいから、こうしてひとりでやっているということはあるかもしれませんね」
「ホモソーシャル……って男性中心社会のことかな。ところで、光田さんはご結婚はされてるんですか?」
「残念ながら独身です。だから子育てについて口出しする資格はないのですが、子育てをひとりで抱えがちな女性たちのことは応援したいと思っています」
「だから毎日がレディースデイなんですね」
「そうそう。そのうち子連れ歓迎上映会なども開きたいと思っています。そのときは知り合いの保育士さんにヘルプにきてもらおうかなとか」
「いいですね! そういう場所って必要だと思います」
里沙のあいづちを聞きながら、つい自分の話ばかりしてしまったように感じた影一郎は、あわててこう尋ねた。
「そうそう、会田さんのお悩みというのは?」
そう聞かれた里沙は、ハッとした顔でこう答えた。
「実は今夜は、家で何もしない夫の態度になんとなくむしゃくしゃして、プチ家出してここに来たんです。でも映画を観て、それから光田さんと色々お話していたら、モヤモヤがずいぶん解消したような気がします。女性を応援してくれるフェミニストの男性が近くにいるって知っただけでも、よかったです」
「そうだったんですか。それじゃ、そろそろ帰らないと旦那さんが心配するんじゃないですか?」
「ぜーんぜん。映画のシャーリーは、ギリシャまで旦那さんが迎えに来てくれたけど、私の場合はどうだか……。」
影一郎は笑顔で言った。
「きっと迎えに来ますよ。ほら、映画みたいに子供から "何やってんだよ父さん迎えに行きなよ!" って言われたりしてね」
「あのシーンもいいですね。あーあ、私ももっと遠くへ家出しちゃおうかな?」里沙がいたずらっぽく言った。
「家出を奨励するわけではありませんが、シャーリーみたいに旅に出るのはいいことですよ。旅はいい。日常を離れて旅することは、大変な人生の絶好の処方箋だと思います」
影一郎がそう言うと、里沙はちょっと考え込んだ。
「日常を離れて、か……。考えてみたら、夫なんて子供じゃないんだから自分の食事くらい自分で用意できるはずなのに、私がやらなきゃ!って思いこんじゃってたところあるかも。子供ももう大きいんだから、少しの間くらい夫と二人で放っといても平気ですよね」
「自分にとってかけがえのないものでも、たまにはそれからちょっと離れてみるって大切ですよ。距離をおくと新しく見えてくることがきっとあります」
そのとき、里沙がカウンターに置いていたスマホ画面が明るくなった。里沙がスマホを手に取ると、メッセージが入っている。"今どこ"。
「あ、旦那からだ」
「ほら、やっぱり心配してる。じゃ、そろそろおひらきにしますか」
「今日はありがとうございました。悩みが話せてよかったです」
「私と話す以前に、悩みはきっと映画が解消してくれたんですよ」
と影一郎は言った。
「はい、ひとりで映画を観に来て、家族以外の人と話して……それがストレス解消の特効薬だったかもしれません」
里沙の言葉に、影一郎はちょっと嬉しくなった。
「毎日が大変なのはこれからも変わらないかもしれませんが、疲れたらまたここへリフレッシュしにきてくださいね」
「はい! また来ます。今度は、ここのこと噂してた友達と一緒に来ようかな。そして次は光田さんの恋バナでも聞かせてもらおう」
こ、恋バナ。影一郎は面食らいながら、軽やかな足取りで去っていく里沙の後ろ姿を見送った。この年まで独身の私に向かってなんということを。そりゃ、私にだって若いころはあったけれど……。影一郎の頭の中に、青春時代を過ごした1980年代の日々と、そのころに観た映画のタイトルが次々に浮かんできた。
それはともかく! と、影一郎はわれに返ると、映画館の出入り口を見やりながら、彼女の人生も映画のシャーリーのように輝きますように、と頭の中でそっとつぶやいた。
(この物語はフィクションですが、『旅する女 シャーリー・バレンタイン』はAmazon Prime Videoで有料レンタル配信中です)
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