癖と個性(中編)

前編の続きです。

仰向けに寝て両膝を立て、片膝(片脚)を外に開いていく閉じていく。そんなシンプルな動きが、ヒップリリースというピラティスのエクササイズです。このエクササイズをどれだけたくさんおこなっても脚の筋肉が太くなって、たくましい見た目になることはありません。自分の太ももを太くしたいという動機ではなく、より自然な関節の動き・より美しい動きを手に入れることに関心を持ってこのエクササイズを退院後に取り組み始めました。不自然な動きには、余計な緊張があります。その澱みを取り除いていけば、自分の神経の流れも良くなる(=膀胱直腸障害による麻痺が改善される)と考えたのです。

実際におこなってみるとわかりますが、片膝(片脚)を外に開いていくと反対側のお尻が浮き上がってきます。骨盤はまったく動かない形で、純粋に大腿骨だけを外側に倒していきたいのです。ゆっくり限界まで開いてみるとわかりますが、どこかから骨盤が動き始め、腰椎(腰の部分の背骨)が動いてしまっているのです。このエクササイズにおいては、分離させて動きたいのです。身体はそれぞれが協調して動くダイナミックなものですが、純粋に股関節の動きだけをこの場面では追求したいのです。怪我をする前にもうピラティスの指導者資格を持っていましたが、内心、このヒップリリースは退屈なものだと捉えていました。ほんの少し前まで歩行器によりかかりながら病院内を移動していたような状態だったので、それぐらいしかできなかったというのが実際ですが、もっともシンプルな動きに目を向けたのです。

ヒップリリースをグループレッスンなどでお伝えすると、多くの人は大きく倒そうとしがちです。ヨガやピラティスの愛好家やインストラクターをされている方々ですらそうです。「何キロ持ち上げられるか」「体重が何キロになるか」「開脚できるかどうか」「難しそうなポーズができるかどうか」といったゴールに対して、私たちは目を向きがちにです。プロセスに対しては、あまり誰も関心を持ちません。代償動作のないピュアな動き 、動きのクオリティやテクニックには、意識があまり向けられることがないのです。

入院中は地獄のような日々だったので、怪我の功名と言うのは少し違和感がありますが、ゴールではなくプロセスに関心を持ってピラティスと向き合ったのです。当時は今にも増して未熟でしたが、時間はたっぷりありましたし、それしかすることがなかったという感じでした。

数週間後に、レッグスライドというピラティスのエクササイズも加えました。このレッグスライドも同じく膝を立てて仰向けになった姿勢から、脚をまっすぐに伸ばす・また膝を立てて元の位置に戻るという、とてもシンプルな動き(股関節の伸展・屈曲)です。この動作も試してみるとわかると思いますが、脚を伸ばすことばかりに意識を向けると腰が反ってしまったり、骨盤が傾いてしまったりします。ヒップリリースと同じように、そういった混じり気のある動きではなく、このレッグスライドでは美しい必然の軌道で脚を曲げ伸ばししたいのです。

真実の軌道からはずれることと、太ももの前側にある表層の筋肉は不必要な緊張をします。大腿筋膜張筋から腸脛靭帯という斜め前のラインが軌道からはずれてしまうと、よく緊張しました。もっとも多いのは、大腿直筋という太ももの前側でもっともボリュームのある筋肉の過緊張です。この筋肉が過剰に緊張すると、脚を伸ばしていく場面で膝をぐっとホールドしてしまいます。膝の関節をこの筋肉が跨いでいるからです。動きのクオリティに目を向けた場合、身体をホールドすることは限りなく避けたいのです。スクイーズ(squeeze)、締める・固めるといった感覚も同じく避けたい質の低い動きです。真実の軌道が見つかると、横隔膜から脚がつながっていることがわかります。この筋肉は大腰筋と呼ばれています。解剖学的には外転10度弱というところなのですが、その日によって感覚は変わりました。見つかっては見失ってを繰り返しながら、ヒップリリースとレッグスライドを続けました。

当たり前の話ですが、どれだけ練習したところで、骨の長さは変わりません。とはいえ、真実の軌道を見つけた後に左右を比較するとはっきりと脚が長くなった感覚がありました。それが筋肉だけではなく、骨・関節であったり、筋膜・靭帯・腱・軟部組織といった身体全体に意識を向けたことで起こった変化でした。子供の頃に短足と親からからかわれたことがきっかけで、自分の容姿にはコンプレックスを持っていました。麻痺の改善はもう少し先の話になりますが、自分の個性を徐々に受け入れ始めていることに気づきました。

3ヶ月の入院生活で時間をかけて鍛え上げた逞しくなった胸囲100cm以上の胸板をはじめ、筋肉は驚くほどなくなりました。「もっと成長したい」「身体を大きくしたい」とエゴが強くなり過ぎてしまった自分は、強制的に入院によってどうにもならないレベルの癖を取り除かれたのかもしれません。

自分を受け入れる、それは自分を諦めることではないのです。

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