才能とは何か?〜どんな人が、ピラティスインストラクターに向いているか。そして、短足のイアンソープについて〜

才能の有無と、僕たちの命の価値には関係がありません。
ですが、才能があることに時間を使えると人生は豊かなものになります。

大谷翔平

あれだけ野球の才能に恵まれた大谷翔平も、野球の才能があるに過ぎません。同じスポーツでもフィギュアスケートであれば、あの大きな体躯では高い跳躍は期待できないでしょう。羽生結弦に勝つことは、絶対にできません。卓球選手としても大成しなかったはずです。大谷翔平ですら、野球の才能があるに過ぎないのです。万能バサミのような才能は、実際には存在しないのです。

短足なイアンソープ

伝説的な水泳選手、イアンソープも水泳における天賦の才に恵まれました。彼は周囲に比べて脚が短く、胴が長い胴長短足だったのです。その極端な脚の短さが、水泳における才能になりました。

水の中を泳ぐ魚を見てください。魚の尾ひれは短いのです。あの短さが、水の中では有利に働くので、胴長短足の魚たちは素早い動きで泳いでいるのです。イアンソープも、長い胴と強い体幹に対して、脚が短かったことで圧倒的な存在となり得たのです。

わたしは大学時代、三流のアイスホッケー選手でした。アイスホッケーも脚が長いと、対戦相手からのタックル(チェック)に負けてしまうので、脚は短い方が有利です。ただ短すぎると、氷の上を素早く移動できる推進力(スケーティング)は落ちるので、腰を低く落とせる足首の柔軟性がより重要となります。脚はほどほどに短くて、足首の柔軟性がある人が、アイスホッケーに向いています(股関節も。わたしは幸い、脚が短かったものの、足首が硬くて随分と苦労しました。

すべてにおいて

スポーツに限らず、才能の有無が人生を決定づけます。何事においても、才能があることに時間を使うことで、人生が謳歌できると思います。才能がないことを楽しめることもまた才能という、禅問答のような部分もあります。ですが、脚が短いイアンソープが脚の長さが極めて重要な意味を持つ、短距離走ではなく、水泳を選んだのは天の差配なのか、周囲の大人が優秀だったのか。ともかく、判断できる余裕があるなら、才能があることをするべきです。

ボディワークとしてのピラティスにおいて

ピラティスインストラクターとしての才能について述べるなら、筋力や柔軟性は一切、向き不向きと関係がありません。逆に柔軟性が高い人の方が、身体の硬い生徒の気持ちがわからないので人気がなかったりします。子供の頃に運動神経が良かったと言われるような、元気溌剌系の人も頭も筋肉なのかなという感じで、思い遣りに欠けていたり、不勉強だったりするので、向いていない例を目にします。

つまり、外野から見ると向いていそうな人がまったく向いていないのが、ピラティス稼業の面白さです。

わたしの人生を振り返ると、中学時代に選んだ部活からはじまり、「向いている」「俺には才能がある」と実感できたことは、ピラティスに出会うまで一度もありませんでした。自分に才能があるという実感を初めて得られたのが、ピラティスでした。

美しい背骨

ピラティスの勉強をしはじめてからの数年間。勉強が楽しくて楽しくて、サラリーマンとして得たお給料を、当時ほぼすべてピラティスに注ぎ込んでいました。

そんなある日のワークショップで、先生が背中が大きく開いたウェアを着ていました。その先生が、うつ伏せになって、背骨の1本1本(椎骨)を細やかに動かすスワンという動きを披露してくれました。そのドミノのように綺麗に規則正しく動く、美しい動きを見せてもらって、当時の僕は感動しました。

感動のあまり涙が頬をつたっていました。6名ほどの受講生の中で、男1人の参加。背骨の動きの美しさに、泣いている自分。周囲も勉強しにきているので、わたしの涙に気づかなかったものの、起き上がって説明をしようとした先生が、僕の涙に気づきました。

「え、はさかっちどうしたの?」
「先生の背骨があまりに美しく動くもので、感動してしまいまして。変ですよね、あはは」

周りの受講生たちは、呆気に取られていました。この時のことをわたしはとてもよく覚えています。

「こんなに綺麗な背骨の動き(アーティキュレーション)を目にして、感動しているのは俺だけなのか。この中で俺がもっとも身体が硬く、不恰好に思っていたが、俺がこの中でもっとも才能があるのかもしれない」

そう確信を得たのです。実際にどんなスポーツをしても補欠だったり、パッとしなかったわたしは、内観的なピラティス、心身相関、治療的なピラティスにおいては、日本の第一人者と自負できる立場になりました。

自分自身、ピラティスにおいて才能があると自己評価をすると調子に乗っていると思われる方もいるでしょうが、イアンソープの短足のようなものなのです。彼がモデル志望であれば、その脚の短さを笑われたでしょう。才能とは、そんなものです。

ピラティスにおける才能

わたしのレッスンを受けて、その身体感覚の変化にニヤニヤしている人をたまに見かけます。その人がどんな仕事をしているとしても、その人の筋力があってもなくても、柔軟性がどうであれ、そのニヤニヤした表情をもってその人の才能を、わたしは見出します。自分の身体を内観して、その変化を感じることでニヤニヤする人は、ピラティスに向いています。極めて、向いています。元モデルだろうが、美人だろうが、スタイルが良かろうが、内観できない人は才能がありません。身体感覚よりも、どのエクササイズができるかに意識が向く人も、同様にピラティスインストラクターに向いてはいません。

社会では結果に重きが置かれますが、ピラティスにおいてはプロセスに重きが置かれるのです。強引にロールアップで起きあがろうとする人は、不正をしても売上をあげたい悪徳営業マンみたいなものです。身体の声を聞くことにより強い興味関心があって、そのプロセスを追いかけることが楽しめる人。小さな変化にニヤニヤできる人。そういう人は、本当にピラティスが向いています。

大人になってから音楽家になるつもりがないのに、ピアノを習ってある楽曲を演奏できるようになりたい。そんな気持ちで、ピラティスを学んでくれる人がいても、それは講師として大きな喜びです。あなたに才能があれば、人生をより豊かにしてくれるはずです。インストラクターとして活躍したいと思うなら、レッスンを受けにきてください。その身体変化が楽しい、面白いと思えたら、あなたはきっと良いインストラクターになれるでしょう。

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