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母のことを思い出し、友人と花火を見る

塩昆布屋さんの話

母は生前、仲の良い塩昆布屋をしている母の友人が、どういう経緯で塩昆布屋になったのか、話をしてくれたことがあった。

母の友人は、老舗の料亭の女将だったらしい。
その料亭は流行っているとは言い難い状態で、女将は切り盛りに苦労していた。ある日、その女将は、帳簿を開いて資金繰りに頭を抱えたまま、疲れ果てて眠ってしまった。

夢の中で、小判がザクザクと増えてくるのをその女将はありありと見た。

夢から醒めた女将は、この夢は何かを暗示しているに違いないと感じ、それから、どうすれば経済的繁栄が手に入るのか考え始めた。

ある日、女将は数が少ないながらも来てくれるお客様は、皆、「塩昆布を持って帰りたい」と言って、お土産に持って帰ることに気づいた。

料亭を閉めて、塩昆布屋を開くと成功するのではないか。
女将はその考えを主人に伝え、塩昆布屋として開業して大繁盛。今では百貨店その他でも購入できる老舗の塩昆布屋として愛されるようになった。

…と、そんな話を「○○のおばちゃんの家は、….」と自慢してくれた。

葉坂家はもともと裕福で、僕が10代後半ぐらいから没落していき、母がこの話をしてくれた頃は、完全に没落した後。母はパートをしながら、どうにか家が切り盛りしているような状態だった。そんな頃だったから、何か友人の家の話をすることで、葉坂家を再興することを期待していたのかもしれない。

ちなみに、後々調べてみると、随分と誤解をしたまま思い込んでいたことがわかった。老舗の塩昆布屋のはずなのに、母親の友人が…だと歴史が浅すぎるし、母親の世代で「小判が…」なんて、確かに夢の中に出てくるアイテムとしてもおかしい。塩昆布屋のHPを見てみると「天明元年(1781年)に…」などと、記載されている。料亭の話も出てこないし、どうなっているんだろう。あの時の母親との会話はなんだったんだろう。

母の死と、距離

母の入院、そして母の死の前後。その時分は随分と、その○○のおばちゃんにお世話になった。ぼくが片親な上に、教養のなさも相まって、わからないことだらけで質問ばかりしていた。

初七日を過ぎたあたりから、なんとなく距離を出来て、連絡は取らなくなった。○○のおばちゃんは親戚でもなく、他人であり、自分が淋しさのあまり、母の友人に対して寄生虫のようになるのも、みっともないという想いもあった。そうなり得る危うさも、当時の自分の心はあった。

没落する葉坂家

ぼくが幼少期には裕福だった葉坂家の没落は、ひどかった。両親の離婚後、坂を転げ落ちるように落ちぶれていった。とは言え、ぼく自身は間抜けなもので、母の死後、その没落を痛切に知ることになる。母親の香典で母が借りた金融ローンの返済に充てるような落ちぶれっぷりだった。

母の生前は、そんな苦境にあるとは知らずに、サラリーマンで得た給料を家に入れることもなかった。お金の工面に困っているなど、苦境を知らされたこともなく、安い給料の中で、呑気に散財していた。妹は、家にお金を入れさせられていたらしい。母は、ぼくにだけ甘かった。母は、バカ息子にカッコつけたかったのかもしれなかった。

母の死後、ローンの支払い期限を知らせる葉書が届くたびに、これだけ葉坂家が悲惨なことになっているのかと、厳しい現実を突きつけられた。あの時の母親への申し訳なさは、キツかった。「こんなに大変だったのなら、生きている時に俺に言ってくれよ」と、当時は何度も泣き叫んだ。

その苦境を糧に必死に生きて、家を再興させた…という話になると綺麗だけれど、僕は残念ながら、お金を稼ぐことよりも、心身の健康、心身相関の世界、特に身体というものに取り憑かれるように興味を持ってしまった。だからまあ、成金的な成功物語というよりは、お金に縛られない自由な生き方をするようになった(なってしまった)。

不思議な縁

昨日、天神祭があり、屋形船に乗せて頂いた。そして、その船の中で○○のおばちゃんと再会することができた。かなり、不思議な奇妙な面白い展開での再会だった。

ある男性クライアント

1年ほど前、ある男性から依頼があった。その男性とは、その後、月1回のセッションが続いていた。少なからず、男性のクライアントがいるので別に不思議なことでもなく、その男性の興味や求めていることも、ぼくのセッションで解決できることと合致していて、なんの違和感もなくセラピストとクライアントという関係性が続いていた。

ある回のセッション後、男性からこう打ち明けられた。

「実はね、ぼくと先生(葉坂)は過去に会ったことがあるんです。覚えていますか」

話を聞いていくと、中学1年生の時に、家庭教師をしてくれたことがあったらしい。完全に記憶から抜け落ちていた。そして、この男性の母親が○○のおばちゃんだったということがわかった。

ぼくは中学時代の家庭教師の先生に、そして、母親の友人のご子息に対して、「少し働き過ぎていて、休みの日もスキーに行ったりして、きちんと休めていませんね。もう少し自分を癒す時間が必要ですよ」などと、偉そうに宣っていたことなる。恥ずかしいけれど、面白かった。

ボディワーク、セラピストを探していて、ぼくの文章を気に入ってくれて、さらに僕のこの特異な苗字から、過去の関係性をすぐに思い出したものの、惹かれるものがあって、セッションの依頼をして、今日に至っていると。「バイアスがかかると嫌だから、言わなかった」と吐露してくれた。

屋形船での再会

その会話の延長線上で、その男性が持っている屋形船に乗せてもらうという展開になった。その男性の母親、つまり母の友人、塩昆布屋の○○のおばちゃんと母の死後、久しぶりの再会をするということになった。

もっとドラマティックな感動的なものになるかと思いきや、○○のおばちゃんから、「花火をバックに写真を撮って」と頼まれたり、「あんたも撮ったろか」と撮ってもらったりと、大阪スタイルの粋なやり取りが気持ちよかった。「やっぱ、大阪のおばちゃん達って、サイコーやん」と思いながら、僕は風情を味わい、良い時間を過ごさせてもらった。

男性はまたセッションに来てくれるが、男性のお母さん、ぼくの母親の友人である○○のおばちゃんとは、もう会うことはないかもしれない。まだまだお元気だから、随分と先のことになるだろうけれど、お葬式に参列させて頂く形になるかもしれない。縁起でもないことだけれど、人はいつか死ぬのだから、そうなるかもしれない。

もし男性がセッションの依頼をしてくれていなければ、あの母の死の前後に助けてくれた○○のおばちゃんと再会することはなかった。お世話になったまま、別れていたに違いない。20年近くぶりに再会したお世話になった相手に、今も屋形船に招待されて、「これ、食べるか〜」と言われて「いただきます!」と少年キャラになって、また世話になる僕の厚かましさ。

いつか母と天国で再会したら、怒られるだろうか。いや、笑われるだけだろう。


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