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幸せがんじがらめ

私は定義できないものに不安を覚えがちである。
とはいえこの世には定義ができないものの方が多いし、
そもそも定義自体が誰かが決めた物差しであって絶対的なものではないのに
正解がまるでないものを考えると宇宙空間に放り出されたような孤独と不安に襲われるのだ。だからあまり考えないようにしている。

幸せってなんだろう
私の推しはよく「幸せになろう」、「幸せになりたい」、「幸せでいてね」などの言葉を発するのだが、その度にこの人の言う幸せってなんだろうと思う。

そして推しの言葉が移ったのか、いつからか私もよく自分の大切な人たちに「幸せでいてほしい」と願ったり、言葉にするようになった。
口にするようになってはじめて私にとって「自分の大切な人が幸せであることは自分の幸せの一部分になること」を実感した。
具体的に自分とどうにかなってほしいとか、自他の境界が曖昧であるというよりは「この人たちが辛い目に遭わず笑っていてほしい」という祈りに近い感情である。
しかしふとまた不安に襲われるのだ。
自分の大切な人が思い描く幸せの中に自分が含まれていなくても、「それがこの人の幸せだから」と手を離せるだろうか。

小さい頃、酒に酔った母が「実家に帰りたい」とよく漏らしていた。
時には玄関から出て行こうとする母を「行かないで」と泣きながら追いかけた。
大人になった今、地元から遠い慣れない土地で義両親と暮らし自営業を手伝う母の偉大さとその計り知れない寂しさや辛さを想像するのは容易い。
しかし幼い私はその言葉を聞くたびに「母が帰りたいと思う実家には自分はいないのだろうな」という漠然とした悲しさと怒りに似た感情に襲われた。

「人の心は縄で括れない。」
私がラジオやポッドキャストを拝聴しているジェーン・スーさんがよく仰っている。わかっているけれど難しいのだ。モヤモヤした気持ちを解いていって残るものは至ってシンプルでそれでいてそれが一番難しい。

結局は幸せは自分軸の話なんだろうと思う。
私は名誉もさしていらないし、有名になりたいとかも思わない、生活に困らずある程度自由に暮らせる金銭と大切な人が周りにいれば幸せである。だいぶ欲張りである。
一方でお金持ちになりたい、社会的地位が欲しいという人もいるだろう。
だから「私の考えるあなたの幸せ」を押し付けてもその人はすり抜けていくだけで、「誰かの考える私の幸せ」も同じように私はすり抜けていって良いはずなのだ。でも「誰かの考える私の幸せ」に応えることで満足感を覚える瞬間もある。それも私の幸せなのかもしれない。

幸せってなんだろうか。
答えがないから人は太古の昔からずっと幸せについて考えてきたのだろう。
幸せってなんだろうか。

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