20240815 明日くたばるかもしれない、だから今すぐ振り絞るuuuuただ伝わるものならば僕に後悔はなaaaaい、と言えるほどに表現しきれているだろうか、僕は、君は。まだまだ書かんといかんのやないだろうか。

 一週間ほど前にデカい地震を経験いたしました、どうも蛯原です。
 僕が住んでいる宮崎県日南市は震度6弱の揺れ。自宅は木造アパートの二階なので、僕の部屋も揺れに揺れました。本棚はバラバラ、食器もどこそこに散らばり、悲惨な状態に。蛯原はその日夜勤で、片付ける時間もなく職場に向かいました。夜中にまた揺れるのではないかと恐る恐るな心持ちでしたが、家で布団の中に入っているよりはすぐに逃げ出せていいんじゃないか、と切り替えて仕事に取り組みました。←偉すぎる。

 南海トラフがどうとか、考えすぎて気を揉んでもしょうがない部分があるので、これはあくまでも個人的な思いをしたためた日記になります。

 コロナがはやり出した時もそうだったのですが、こうやって「死」の可能性を近いところでチラつかせられると、僕が考えることはいつも同じなんですね。「メメント・モリ」。誰しもいつかは死ぬ、それまでにどうするかっちゅうことです。

 例えば僕に子供がいたなら、次世代の為になにができるか、みたいな発想になったかもしれません。大人の責任というヤツを、果たそうとしたのかもしれません。
 
 でも僕にはパートナーも子供も居ない。一人暮らしの成人男性です。
 死ぬときは、たぶんひとりです。
 命の炎が尽きるその瞬間に自分は何を思うのだろう、とよく考えます。
 正直、ポジティブな未来はあまり思い描けない。それは現在の国際情勢や政治、経済的な予測も相まってのことですが、何より孤独というものが、老いた人間の心にどう作用するのかを考えると、恐ろしく不安になるのです。

 じゃあ、自分の孤独を埋めるために他者を求めるのか?
 それは果たして相手に対して(生まれてくるかもしれない子供に対して)誠実と言えるだろうか?
 
 誠実。そう、誠実さです。
 僕は最低限、死にゆく未来の自分に対して誠実にありたい。
 じゃあ何が誠実さを担保するのか。
 これも正直うまく説明できないし、分からないです。
 ただ唯一確実に言えることは、「書きたいとおもった小説は、書いてから死なないと、死の淵で絶対に後悔する」ということです。
 
 もちろん創作だけが人生じゃないですし、これからの僕の人生でなにか他に大切なものがあらわれるかもしれない。それに対して誠実であるために、創作活動をあきらめることがあるかもしれない。

 けれど、現時点での僕が、死の淵に居る僕に対して誠実であるためには、とにかく書きたいものを書く、完成させるということをしなければならないのだと思います。

 長らく筆をおいていた僕が創作の世界にもどってきたきっかけは、コロナ禍であったように思えます。「せっかく考え付いたこの話を書かずに死ねるか!」というエネルギーが確実にありました。

 なんか宣伝になっちゃうみたいでアレなんですが、9/8に開催される今度の文学フリマ大阪で販売する僕の長編小説も、そういったエネルギーで書き上げたものになります。
「月鱗のナツキ」というタイトルのホラーっぽいものになります。

 まだ本自体が出来上がっていないので、販売ページへのリンクなどはここには貼れないのですが、気にかけていただいたら幸いです。

 それではまた。
 まだまだ死ねない蛯原でした。

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