見出し画像

ジョアン・ジルベルト 来日公演の記憶(2003年〜2006年)〜「ジョアンのサンバ」は永遠に〜

3年前の2019年にTwitterを始めた時に、同年の7月にジョアン・ジルベルトが死去したこと、奇しくもタイミングを同じくして「ジョアン・ジルベルトを探して」というドキュメンタリー映画が公開されたことを受けて、全14回すべてに通ったジョアン・ジルベルトの来日公演の思い出をTwitterで連投しました。

以下はその連投したツイートを一つの記事にのこしておこうと思い、所々修正を入れてまとめ直したものです。

どうも思い入れが強すぎて気持ちの悪い文章になっていますね…
まあ大ファンというのはそんなもので。

このジョアンへの思い入れが、現在ファンであるハードロックバンド・人間椅子のライブで主にギター・ボーカルの和嶋さんのギターを、手元をガン見しつつ全身を耳にして聴いている、そんな自分の鑑賞の仕方の源流なのかもしれません。
ジャンルは全然違うけど…

(下記は2019年9月の時点で、2003年〜2006年のことを回想しつつ現在のことも織り交ぜた文章になっております)

ジョアン・ジルベルト初来日公演の報を聞いて

2003年にまさかの来日が発表され世間(主にサブカル方面であるが)が騒然とした時、「おっ全部行こう」と即決した自分。まさか計3回も来日することになるとは…

大ファンなので生で見たいのは当然ですが、例のバチーダというやつ、あのリズムがどうやって繰り出されているのか?ギターはわからない自分ですが、どうしてもギターの手元を見たかったのです。
当時はまだYouTubeもなくジョアンの演奏映像を見る手段がなかったからね。

ジョアンは「自分がやっているのはサンバだ」と発言していました。
それはどういうことなのか、ではボサノヴァとはそもそも何か?…とかいろいろなことを考え、これは生で見て聴いて検証しなくてはと思いました。

初来日公演(2003年9月)

2003年9月11日。会社の仕事が終わって会場の東京国際フォーラムに来ると、期待ではち切れそうな人々の群れが。

現地でブラジル音楽関係の知り合いと出会ったので、お喋りなどして開場を待っていましたが…いつまでも開場しません。溢れかえっていくお客たち。
「こいつはいったい…」と不穏な予感が胸をよぎったのでした。

そのうちなんとかロビーまでは開放されましたが、ホールの扉は閉まっていてここでまた人溜まり。この時点で開演時間をとうに過ぎています。

そしてアナウンス「アーティストは会場に向かっております」OH…

遅刻で有名なジョアンなので多少の遅延はあるかもと思いましたが、明らかに本人の心がまだ開演に追いついていないだけという理由なわけで、「本物ってまさにこういうことなんだな…」と呆れ返りつつ感慨深くなりました。

その後、アナウンス「到着しました」で拍手喝采のお客たち。鍛えられていきます。

予定より1時間遅れて客電が落ち異様な緊張感の中ジョアン登場。
「コバワ」と挨拶。
お客がみんなこれ以上ないほどの渾身の拍手で応えます。

ジョアンは意外に背が高く猫背気味で、写真で見慣れた若い頃の、目に微かに狂気をたぎらせた表情とは異なり、静かで柔和な人物に見えました。

1曲目は「Nao Vou Pra Casa」
アルバム「声とギター」所収の古いサンバ。
未知の日本の聴衆を相手に多少上ずり気味にも感じましたが、自分は何といってもその「音の強さ」に驚きました。
力強い音、力強い声、はっきりした正確なストローク。
癒し系音楽だなんて誰が言ったのか?

あっという間に1曲目は終わり、爆音のような拍手。
会場は「とうとう始まった…」という高揚と興奮に満ちています。
少しの静止の後、次の曲のためにギターのネックを起こすジョアン。
こうしてアンコールを挟んで20曲以上が弾かれ歌われました。

さて持参の双眼鏡で手元を見ます。
ジョアンの右手の親指はベースとなる音をキープし続けていました。
サンバにおけるスルドのリズムですね。

そしてタンボリンたる他の指が左手のコードと合わさり小さなバトゥカーダを生んでいきます。
「あぁ、サンバなんだなぁ…!」と思いました。

それがボサノヴァなんだと言えばそれまでですが、ジョアンのあの音はサンバとしか感じられないものがありました。

そしてこれは実際に見て初めてわかったことでしたが、興に乗ってくるとジョアンはギターをのせてない方の脚をブンブン揺らすのです。これは結構な発見でした。

そして歌とギターの関係。
どちらかがもう一方に「沿う」のではない。互いに完全に独立し、のびのびと好きなように走り続けながらも両者は合わさって調和する。
友達同志みたいなものでしょうか?
この辺りがジョアンの音楽の核心なんだろうと思います。

ジョアンは足元に置いた曲目リストからその都度曲を選ぶのですが、全公演を通じて演ったのはほぼ古いサンバとカイミ(ドリヴァル・カイミ)の曲・トム(アントニオ・カルロス・ジョビン)の曲のみだったと思います。
例外としてEstateや自作のUm Abraco No Bonfaくらいかな。トム以外のボサノヴァ曲は演らなかったと思います。

ジルやカエターノの曲もなし。Eu Vim da BahiaやSampaを聴きたかったが叶わず残念。トムとカイミはそれだけジョアンにとり特別なのかもね。
今頃天国でジョアンにまたレコードを録音しようとか言われて困惑するトムを想像するとフフッとなります。

MCもなくギターと歌と拍手だけの興奮と祝祭の1日目は終わり、自分はフラフラになって家に帰りました。
この経験が明日もその先もできると思うと戦慄しました。

翌12日、当然遅刻はするがお客は早くも余裕の様子。ジョアンも早くも馴染んだのか声もギターも絶好調でした。

この9月12日の公演がライブアルバム「In Tokyo」の音源となっています。
録音機器の都合で冒頭部分が切られたのは残念でしたが…

さてここまで「ジョアンが我々に与えたもの」を語ってきましたが「我々がジョアンに与えた、もしくは与えたらしいもの」もあったりします。

お客ができることは拍手だけで、それ以外何もなし。ジョアンへ感動を伝えたくても、叫んだり喋ったりする訳にはいかないです。
拍手に思いの全てを込めるしかありません。

5000人が曲の最後の一音まで完全な静粛を守り、終わると同時に肩も脱臼せよといわんばかりの爆発的な拍手をし、ジョアンがギターに手をかけるとピタリと止む。2日目にしてもうこの形はできていました。
拍手それ1つに凝縮された熱い思いを叩き込む。

スピリチュアル的な事に全く興味ない自分でも、そんな拍手のエネルギーの強力さはわかります。
ましてや特別な感受性を持つジョアンただ1人にそれが集中しているのです。これは何かの作用を及ぼすのでは。

公演3日目以降のジョアンの行動は、今から考えれば必然のものだったなあ…

2003年9月15日(祝)会場はパシフィコ横浜に変わり自分は家族を連れての参加。
今日も元気に遅刻のジョアンはしかし、Estateだったかをやった後に、鳴りやまない拍手の中ギターを抱えて目を閉じたままいつまでも動きませんでした。
後に言う「フリーズ」であります。

客は本当に焦りました。具合が悪くなったのか?何か不満なのか?拍手はやめた方がいいのか?誰にもわからずただ拍手が続く。途中でステージに花束持って近づく女性、携帯カメラでジョアンを撮ろうとする若者なんかもいて、なんかもういきなりカオスになってしまいました。

懸命に拍手を続けて30分後(!)ジョアンに動きが。
ピタリと止まる拍手。途切れ途切れに始まった曲はUm Abraco No Bonfa。自作のインスト曲で今回これが初演。
大好きな曲なので「ああボンファだぁ!」と大興奮。若い頃のキレッキレの演奏とはまた違います。

その後は元気に演奏するジョアン。
「あれは何だったんだ…」と思う。

さて最終日はまた有楽町に戻ります。
この日はBahia com Hが初めて聴けて良かったです。カエターノやジルと歌っているバージョンを聴き慣れてるので、1人で演るのは何か新鮮に聴こえました。

そしてやはり固まったジョアン。前日の情報が広まっていたらしく「あっ、来た…」というお客の反応だったような。
正解は解らないがとにかくひたすら拍手を続けます。
また20~30分位経過(拍手の世界最長記録では?)しかしその努力に答えが出るときが来ました。

おもむろに動いたジョアンの顔には満面の笑みが。…何か喋りだした!「ベイジョ…カーダ…マウン…」ポル語は解らないが、ベイジョってキスじゃないっけ…マウンは手のひら…「アリガト、ジャパゥン」あああ。拍手良かったんだ!ジョアン嬉しかったんだ!

ホッとした気持ちと驚きと幸福感が混ざり異様な歓喜に満たされる場内。
その後ジョアンの演奏はそれまでとはまた違って聴こえました。演っている人に愛があるんだぜ!!我々への!
…公演最終日はこうして過ぎました。これほど心が満ち足りたことはなかったです。

後で確認したところでは、ジョアンは「1人1人の手と心にキスを。ありがとう日本」と言っていた由。そしてフリーズ中お客1人1人にありがとうを言っていたらしい。それは時間もかかるわね…耳がいいので拍手も1人1人聴き分けてたりしてね…

拍手だけでなく、絶対一音も聴き逃すまいと最高度に集中する姿が、とにかく100%の自分の音を聴いてほしいジョアンにとり最上のものだったのでしょうかね。
音楽の最良の聴き方はアーティストによって異なるが、ジョアンと日本の聴衆は幸福な邂逅をしたと言えるかと。

公演は終了しジョアンは去りました(実はすぐに帰国したのではなくしばらく滞在していたらしいですが…)自分はジョアンの魔力に骨の髄まで侵されているのを知りました。もはや廃人です。
「ジョアン・ジルベルトを探して」でミウシャが言っていたあのジョアンの謎の力が、状況の違いこそあれこんな日本のいちファンにまで作用したのであります。

実はジョアンの3度の来日の中でこの最初の年の記憶が一番鮮明です。
最初で色々な衝撃があったのと、後に行くに従ってジョアンと日本はすっかり馴染んで違和感無くなったということでもあります。
翌2004年の再来日を知ってもそれほど驚きはなかったです。

2回目の来日公演(2004年10月)

2004年10月2日大阪から始まった2回目の来日公演。挨拶代わりのフリーズあり、3日には1曲目から日本公演初のAguas de Marcoで皆大歓喜。名盤ホワイトアルバムのあの名曲が目の前にありました。「曲って生き物なんだなあ…」と思わせるジョアンの演奏でした。

東京国際フォーラムへ場所を移し4日目、10月11日の最終日。(しかし自分もよく通ったもんだ)ジョアンは延々と演奏を続け、30曲を過ぎても全く終わる気配を見せない。超ノリノリです。こんなに楽しそうにギター弾いて歌ってる人は初めて見たよ…

とうとうニッコニコで「ジャパゥン〜」という自作?即興?の短いフレーズを歌うジョアン。歌いすぎて声が掠れているがまだまだ演奏を続け、止まらない。こちらは嬉しいけど心配。「誰か止めろ!倒れるぞ!」というくらいのノンストップぶりでありました。

4時間近く、45曲位でやっと終了。最後がAquarela do Brasilなのが何か締めくくりらしくて良かったです。本人的にはもっとやりたかったが自制したのかもしれないです。
ウキウキのジョアンとニコニコ(遠方の人はちょっと帰りが心配)の客。幸せな世界でした。

最後の来日公演(2006年11月)

そして2006年の3回目の来日公演。
前述した通り、この年は一番直近なのになぜか記憶はおぼろです。
O Patoで眼鏡がずり落ちたジョアンが笑いながら眼鏡を直しそのフレーズをやり直したこと、それほど遅刻しなかったこと、何かとてもリラックスした雰囲気だったことだけが思い出されます。

そしてやはり、ジョアンも年を取ったなあ、と思いました。
前回に比べギターの音数が減っていました。まあジョアンの価値はそんなものでは測れないんですが、不死であるかのようなこの人も少しずつ老いて行くのだな、と切ないような寂しいような気持ちになりました。

その後〜ジョアンの死

2年後の2008年。
再びジョアンの来日が発表されました。
確か12月にパシフィコ横浜も含め3回公演だったかと。この年はジョアンは久しぶりに本国でツアーをやっており元気そうでした。また日本に来る!「もうyou日本に住んじゃえyo!」と思ったものです。 実際来日時に周囲の人に日本に住みたいという願望も語っていたことがあったらしいです。

だが、来日は突然中止となりました。理由は腰痛というのを見た気がします。
それでもいつかまた来てくれると思っていました。日本を好きになってくれたジョアンだからね。
だがジョアンはその後、二度と日本の我々の前に姿を見せることはありませんでした。


ジョアンとの出会いはボサノヴァのコンピ盤のGarota de Ipanemaでした。英語のアストラッドの他にもう一人、柔らかく優しい、少し鼻にかかったポルトガル語の声が歌っていました。一緒に流れるギターが同じ人によるものということももちろん知りませんでした。

自分はこのコンピ盤からボサノヴァが好きになり、ついでMPB、サンバにも興味の対象を広げ、いっぱしのブラジルの音楽好きとなってサンバの打楽器演奏などもかじるに至りました。
いわばジョアンは新しい音楽世界への扉を開けてくれた人です。

その人の演奏を音源で、そして念願叶ってライブで生の音をたくさん聴き、最後の来日公演以降は動静もあまり聞こえてこなくなった中で、毎年今頃どうしてるかなと思い、結果訃報までを見届けることになりました。

何だか縁というものは不思議だなと思います。
まあこれは全てのアーティストとファンの間に言えることかもしれないね。

2009年以降は毎年「ジョアンは元気にしているかなあ」と思っていました。今年も誕生日(6/10)の頃にそう思いました。そして7月、ネットのニュースに「ボサノヴァの父死去」という見出し。あっと思いました。
ボサノヴァの父と呼ばれる人は世の中に1人しかいません。

ジョアンの死を伝える記事を茫然と眺め、TV GLOBOのサイトで心乱れた表情でインタビューに答えるカエターノや、泣きながらも懸命に微笑むベベウの映像を見ました。
昨日まではジョアンがいた世界が、今日からはジョアンがいない世界になったんだなと思いました。

ジョアンのお葬式の映像も見ました。
集まった大勢の人々が自然発生的にChega de Saudadeを歌っていました。1958年、ジョアンの声とギターが世界を変えたその曲です。一緒に歌いながら泣きました。

そして思ったのが、ジョアンの音楽は普遍的で世界も日本もジョアンを愛したが、ジョアンをジョアンたらしめたのはブラジルだったのだなあということでした。ブラジルで生まれブラジルに終わる。かくして輪は閉じた。そんな気がしました。

そんなわけで追悼の意を込めたジョアンの思い出はひとまず終了。
今頃はやっぱり天国でトム達と出会ってると思いたいです。
ますます充実していく天上の音楽世界、地上世界も負けられないね。

(終わり)