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『人間の建設』を読んだ

2021/6/16、バイト先にて読了。

日本における近代批評を確立した小林秀雄先生と、日本数学史上最大の数学者である岡潔先生による対談。ぼくは『日本人と日本文化』で司馬遼太郎先生とドナルド=キーン先生の対談を読んでから、「対談」という形式が大好きになった。博覧強記の賢人たちに圧倒的な知識で殴られる感覚が快かったのだ。教養あるひと同士の会話を黙って聴いているのは面白い。そのひとが普段考えていることが、他人に伝えるべくわかりやすい言葉に置き換えられて発されるわけだし、実をいうと、ぼくがわからない話の流れがあってもそれはそれでいいのだ。このひと同士にはわかって、ぼくにはわからない領域があるのだと知れることは、人生を生きていくうえで刺激になる。

岡潔先生が数学をやる時に「知情意」を大切にしていることは、嬉しい驚きだった。米の数学者ポール=コーヘンが知的領域においては正しい操作をした結果、一見すると全く矛盾する二つの仮定が両立することが判明した。しかしこの結果には全世界の数学者が反発した。どうしても納得できなかったのである。知識と意志だけで数学をやることはできなくて、感情的に納得して初めて食指が動く、そう岡先生は仰る。

素人考えで、数学はもともとある数式をいじってどこまでも合理的に事物を導き出す学問なのかと思っていたのだが、岡先生によればそれは違うらしい。まず先に「これはおそらく正しいだろう」という形而上的な直観があり、それを現世の言葉で表すべく数式を用いる。つまり、プロセスが逆なのだ。もともとあるものをいじってこの世に無いものを導くのではなく、この世に無いものの存在を予感して、そこに向かってもともとあるものをいじるのだ。哲学・政治思想のゼミにいるぼくにとって、形而上学というものは机上の空論なのではなく、真理の直観なのだとわかったことは大きな収穫だった。

ぼくは丸谷才一先生の仕事をとても尊敬しているのだが、その丸谷先生が小林先生の文章を「悪文」だというので、1度読んでみなくてはと思っていた。本当にそうなのか確かめる必要性を感じていたからだ。もっとも、この本は小林先生の文章ではなく言葉を収めたものなのだが。結論から言うと、ぼくは小林先生の言葉を決して嫌いとは思わないが、たしかに丸谷先生は小林先生の言葉を嫌うだろうなという感想を持った。ぼくが思うに、小林先生は日本的な柔和さや曖昧さを残したひとである一方で、丸谷先生は西洋的な論理やウィットを批評に持ち込んだひとだ。相容れないのもわかる。あるジャンルが発展していくためには、後世の批評家が先人の仕事を批判するのは当然のことだ。丸谷先生は批評家として小林先生を批判する義務があったわけだが、小林先生は「相手の立場に立って考える」という批評の基本姿勢を確立したひとであり、この1点をとってみても尊敬に値するとぼくは思った。

多岐にわたる話題を全て追っていては日が暮れるのでここらでやめにしておくが、やはりお二人とも分野は違えど「学問」というものを尊敬している。理系と文系を分かつようになった現代では、文系軽視が叫ばれて久しい。昔の知識人がざらに数学者・物理学者・作家等を兼ねていたように、本当の教養人は文系・理系問わず学問を尊敬してやまないはずだ。自分に関係の無い専門性を馬鹿にするような中途半端な人間にはなりたくない。心からそう思う。

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