抑圧者である自分に気づく

今こんな本を読んでいる。

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こういうかっちりとした教育学の本を読むのは初めてだけどとても面白い。
この本は50年も前に書かれた本。時代や文化背景が違うのだから、
「現代に生かせるものなどない!」とみくびっていたが、1章からバンバン自分の価値観に突き刺さってくる。

『銀行型教育』とは

ここでいう『銀行型教育』とは、
知識を持つものから持たざる者へと与える。そこには気持ちを通じさせるコミュニケーションはなく、知識の「預金」や「送金」または「移し替え」がされる
ような状態である。
つまり生徒側は知識を入れる「容器」となり、教育者は詰め込むという作業に変わる。
学ぶ側は何の創造性もなく、知への探究のプロセスもなく「知識のコレクター」が育ってしまう。
発見の喜びに次ぐ更なる発見、探究心の姿勢、知ることへの切望、それを続けることという本来の知からは離れてしまう。

こんなところでしょうか?

つまりここに抑圧者側の教師、と被抑圧者側の生徒という支配関係が生まれるわけです。

教師は知っている、生徒は知らない。
教育をする者はする者、される者はされる者。
教師は考える、生徒は(教師によって)考えられる

ここに問題意識を定義している100年前のパウロ・フレイレさんさすがです。

『銀行型教育』にフィットした自分

ここまで読んで、まさしく自分は「知識のコレクター」として現在の学校教育にフィットしてしまった人間だということに気づく。勉強はそこまで嫌いじゃなかったタイプだったし、やればやるだけ結果は出てくるからそれを楽しんでいた。今でも「面白い!」って思った知識は何でも自分のものにしたくなるし、良い意味では興味好奇心があるのかもしれないけど、

「知識至上主義」みたいな自分になっていることも否めない。
「知識を詰め込む楽しさ」を実は教師になって教えたがっているのではなかろうか…?

だとしたらとんだ場違いだ。

きっと自分自身がここから抜け出さなければ、「自由を探究できる教育」とかより主体性とか創造性を育むことの本質的な実践はできないのではないか?

『銀行型教育』にフィットしてしまった、そしてそれをある意味楽しんできた立場としては、本来の理想の教育とはどのようであるべきなのかがだんだんとわからなくなってきている。
いや、本当の意味で自分の価値観の中に揺らぎが起きているのかもしれない。

自由でありたい。そんな人を増やしたいが、
自分自身の自由への探究心が育っていないのではないか?


またどんどん読み進めよう

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