きっと、ゆがんでると思ってて
中学生のころ。
「〇〇先輩の妹?!」
「わー!!雰囲気違うけどちょっと似てる!」
「先輩すごい好きだったの!!」
なんて声をかけられたのは、兄も姉も入部していた吹奏楽部の見学に行ったとき。
当時の私は、胸がチクっとするような、知らない人に馴れ馴れしくされて不快なような、言葉にはできない、説明できないモヤモヤを感じた。
きっとあの頃、この気持ちがなんなのかわかってしまったら、どれだけ自分がひん曲がった人間なのか思い知らされるから、そのままテニス部に入部して吹奏楽部には近寄らなかったのだろう。
そう、きっと私は
「〇〇先輩の妹」ではなく
「私」を見てほしかったのだと思う。
比べられて嫌な思いをしたこともないし、姉は苦手だったけど、すごく嫌いというわけでもない。
それなのに「姉は慕われる存在なんだ」と純粋に喜ぶような自分でないことがきっと何より嫌だった。
そこで喜んで兄と姉と同じルートに素直に進む綺麗な心の妹になりたかった。
けど、できない。
「〇〇先輩の妹」
として部活しなきゃいけないのがなんとなくわかったから。
あの頃はこんな風に見つめ直しもしないし、むしろ見たくない自分だからずっと外に目を向けてた。
いざ鏡の前に立って自分を見てしまったら、いかに自分が汚くてゆがんでいてひねくれているか、目の当たりにしそうで、そんなの知りたくもなくて。
小学校の頃から雪が降っても「寒い」と特別心躍らなかったのは、毎年帰郷する岐阜の地がとんでもなく雪が降っていたからということにしていた。
「雪合戦しよう」「雪だるま作りたい」なんて言うクラスメイトが羨ましくて、どうして私はこんなに冷めているんだろう。と一緒に心が弾まない自分が本当は悲しかった。
でも、なんてことないフリして嫌いな自分を見ないようにした。
思っていることを誰かに打ち明けられないのは、この気持ちを上手く表現する言葉が自分になくて、自分自身明確に気持ちがわかっていたわけでもなくて、周りのみんなが綺麗に見えて仕方なかったからかもしれない。
不思議なことに、年々、年を重ねるほど私は子どもっぽくなっていると感じていて、昔は綺麗と思えなかった草花、星々に感動もするし、雪を見て心が動くようになった。雪合戦は別にしなくていいけど。
子どもみたいに心から泣いて怒って、笑って、という時間が増えた気がする。
昔より全然自分は好きになった。
だけど、汚くてひん曲がっていて醜い、ゆがんだ自分を私は誰よりも知っている。
嫌いではないけど、見せてはいけない気がして、周りにいる綺麗な心を持つ友人たちと私は同じように綺麗だと思いたくて、それを持っている自分でごめん、という気持ちに時々なる。
有難いことに、打ち明けた所で「私も似たようなのあるよ」とか「そういうの言う所が好き」とか全肯定してくれるんだろうなと思う友人ばかりいるのだけど、またこうして思っていることを打ち明けられない自分がいる。
冒頭の話は、なんとなく、ふと思い出しただけなのに、私は昔から自分のことを誰よりもゆがんでいると思っていたんだなと気づく。
別に打ち明ける必要もないし、全部を知ってもらわなくても平気なんだけど、誰かには「わかってほしい」みたいな気持ちが度々顔を出して、
ああ、私はあんなに冷めてたのにいつまで経っても子どもだな、と思う。
こんな私だから、同じように自分の嫌な部分とか醜さとか自覚していて、打ち明けてくれる人が大好きだったりもする。
自分は好きなのに言い切れないなんて、おかしな話。
さぁ、このループをどうしようか、と考えるのは今日は終わりにして寝るとしますか。
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