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宮沢賢治「インドラの網」について

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仏教とキリスト教

 結論から言いますと、この小説はキリスト教の三位一体教義と「華厳経」の教義、そして仏教の「三法印」をドッキングさせたものです。

 三法印とは、「仏教において三つの根本的な理念を示す仏教用語」とのことです。それぞれ諸行無常、諸法無我、涅槃寂静を表します。

 三位一体教義については、週休二日さんのこちらのブログ記事を、

華厳経の教義については黒井瓶さんのこの記事をお読み下さい。

三位一体

 まずは三位一体の要素から見ていきましょう。物語が中盤に差しかかるあたりに、このような記述があります。

 その冷たい桔梗色の底光りする空間を一人の天が翔けているのを私は見ました。
(とうとうまぎれ込んだ、人の世界のツェラ高原の空間から天の空間へふっとまぎれこんだのだ。)私は胸を躍らせながら斯う思いました。
 天人はまっすぐに翔けているのでした。

 そしてこの「天人」が過ぎ去っていくと、このような場面になります。

 ふと私は私の前に三人の天の子供らを見ました。それはみな霜を織ったような羅をつけすきとおる沓をはき私の前の水際に立ってしきりに東の空をのぞみ太陽の昇るのを待っているようでした。

 「一人の天」、そして「三人の天の子供ら」。つまり前者は後者の実の親と読むことができます。怪しいですね。「三人の天の子供ら」について、もう少し詳しく見ていきましょう。一人は「インドラの網」、一人は「風の太鼓」、そして最後の一人は「蒼孔雀」を主人公に教えます。そして作品冒頭を見返してみると、この三つの要素にそれぞれ対応する箇所があるのです。

 稀薄な空気がみんみん鳴っていましたがそれは多分は白磁器の雲の向うをさびしく渡った日輪がもう高原の西を劃る黒い尖々の山稜の向うに落ちて薄明が来たためにそんなに軋んでいたのだろうとおもいます。
 私は魚のようにあえぎながら何べんもあたりを見まわしました。
 ただ一かけの鳥も居ず、どこにもやさしい獣のかすかなけはいさえなかったのです。

インドラの網2

 整理するとこうなりますね。

インドラの網

 「インドラの網」を主人公は視覚で捉えています。「風の太鼓」は聴覚です。「青孔雀」は少しややこしいです。

その孔雀はたしかに空には居りました。けれども少しも見えなかったのです。たしかに鳴いておりました。けれども少しも聞えなかったのです。

 これは視覚でも聴覚でもありません。分かりにくい表現です。つまり思考、脳の働きで捉えています。以上の内容を三位一体教義に照らし合わせ、整理すると、上の画像のようになります。

華厳経

 「三人の天の子供ら」は文字通り子、イエスにあたると考えられます。ではなぜ子が三人もいて、それぞれが三位一体の各要素を表しているのでしょう? 答えは華厳経の教義のなかにあります。

 「インドラの網」の舞台であるコウタンは、チャイナに伝わった華厳経の経典が秘蔵されていたオアシス都市でした。現在では、コウタンが華厳経の成立の地ではないかという説が有力とされています。

 そも、この「インドラの網」とは華厳経の本文に登場する比喩のことです。インドラ(帝釈天)の宮殿には網がかかっており、その結び目一つ一つに宝珠がついているとされます。その宝珠一つ一つがその他の一切の宝珠を映し出すことから一切即一、一即一切の世界観を表しているのです。

三法印

 「三人の天の子供ら」がそれぞれ「インドラの網」、「風の太鼓」、「青孔雀」を主人公に教える直前、

 天の子供らは夢中になってはねあがりまっ青な寂静印の湖の岸硅砂の上をかけまわりました。

とあることから、この作品の構造に三法印が関係していると読み取れます。三位一体も三法印も同じ「三」なので、賢治はここに目をつけて仏教とキリスト教のドッキングを図ったのではないでしょうか。

 ここまで書いてきましたが、三位一体と三法印の対応の詳細や物語中盤の構成は読み解けていません。何か分かり次第追記していくつもりです。

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