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「水の都の護神 ラティアスとラティオス」構成読み解き

 八月十七日、「水の都の護神」を観てきました。怪獣ですが映画館に入れてもらえました。以下、典拠とその関係を書いていきます。

 あらすじはこちらをご覧あれ。

典拠紹介・各読み解き記事リンク

 主な典拠は「豊饒の海」、そしてそのまた典拠である「ニーベルングの指環」「ヴェニスに死す」も踏まえてあります。おそらく「神曲」も?

典拠との対応

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 物語の本筋に入るまえに、舞台となる水の都、アルトマーレに伝わるおとぎ話が語られます。

 宝石「こころのしずく」がすごい光を放っています。まるで太陽です。太陽と海、「ヴェニスに死す」。

 舞台のアルトマーレはヴェニスがモデルです。
 そしてこのアルトマーレ(伊: Alto Mare)が「豊饒」の示唆になっています。
 「豊饒の海」は月の海のラテン名 Mare Foecunditatis の邦訳です。実に皮肉な題名です。実際の月は海などなく、「記憶もなければ何もないところ(天人五衰)」なのですから。
 さて、Alto Mare は訳すと「永遠なる海」「高い海」とでもなりましょうか。いずれにせよ、この物語の内容を踏まえれば皮肉な命名です。

 街の奥、秘密の庭の噴水に祀られている「こころのしずく」は、ラインの川底にある黄金(ニーベルング)に対応。 これを女泥棒の二人組「ザンナーとリオン」に奪われ、物語は本格的に動き始めます。つまりザンナーとリオンはアルベリヒ。

 サトシが出逢う伝説のポケモン・ラティアス。彼女は絵を描くことが好きな少女・カノンそっくりに変身し、サトシを混乱させます。
 カノンとラティアスは豊饒第三巻「暁の寺」のジン・ジャン姉妹。
 ラティアスの行方を追うサトシは「豊饒」の本多であり、「ヴェニス」のアッシェンバッハ。

 ラティアスは次々と角を曲がり、サトシがそれを追いかける。恐らく村上春樹の引用です。

「僕が角を曲がる」と僕は言った。「すると僕の前にいた誰かはもう次の角を曲がっている。その誰かの姿は見えない。その白い裾がちらりと見えるだけなんだ。でもその裾の白さだけがいつまでも目の奥に焼きついて離れない。こういう感じってわかるかい?」

村上春樹「羊をめぐる冒険(上)」講談社文庫 55頁

 ザンナーとリオンの手によって街の防御装置が暴走、あたりから水が無くなるのは「月の海」の暗喩。海と形容されるものの、その実カラカラです。アルトマーレは「こころのしずく」とラティオス・ラティアスの生命力を利用することで守られていたのです。
 サトシとラティアスがラティオスを助けに行く最中に入る、意味深な満月のカットで再度「豊饒の海」が示唆されます。

 「こころのしずく」が壊れたあと、アルトマーレを襲う大津波は「神々の黄昏」に対応。ブリュンヒルデの自己犠牲によって火に浄められた指環を、ラインの津波がさらい、川底へ戻すのです。
 「ニーベルング」ではこれで世界は一度終了し再生しますが、「水の都の護り神」ではラティオスの自己犠牲により「黄昏」は回避。自己犠牲と津波の順序が入れ替わっています。

 元の落ち着きを取り戻した海には、ラティオスが天に召されたことを示す、宇宙のはるか果てまで届きそうな光の柱。横棒を足せば完全に十字架です。ブリュンヒルデの自己犠牲はイエスの十字架刑の言い換えでした。

 ラティオスが亡くなったことを察して悲嘆に暮れるサトシたち。そこへラティアスが「ゆめうつし」という能力で、ラティオスが現在見ている景色を共有してくれます。視点は空のはるか彼方、宇宙から「美しい星」地球を見下ろします。「神曲」天国篇の引用と思われます。

 そのあとラティオスの魂は新たな「こころのしずく」となり(海外名は 『Soul Dew』)、アルトマーレの噴水へ。ひだまり(だったような気がします)のように温かいそうです。やはり太陽なんですね。
 ラティオス・ラティアスが複数体いることは映画内で語られているので、やがて別のラティオスがアルトマーレを訪れるのでしょう。「豊饒の海」の輪廻転生・永劫回帰に相当します。世界の代わりに「こころのしずく」が再生するのですね。

<作品非難注意>トートロジーとしての勧善懲悪

 ラティオスは自分を犠牲にすることで「黄昏」を回避します。このあたりは「闇の奥」のクルツ(ちなみに両者ともに男性です)に似ていますが、踏まえているかは怪しいです。クルツにある悪要素がラティオスにはありません。この映画は清濁併せ呑む姿勢に欠けています。

 もし本気で「闇の奥」を典拠にするなら、「善は善、悪は悪というトートロジーを超える」「日本的伝統」(どちらも「進撃の巨人という神話」における宮台真司氏の言葉)を監督は踏まえるべきでした。アルトマーレという街つまり社会をこっそりと皮肉るだけでなく、思い切って非難すべきだったのです。

 このままのストーリーでは単純な勧善懲悪のなかに、人がポケモンを使役するという欺瞞が隱蔽されて終わりです。ザンナーとリオンは三島がいうところの「道徳的要請(暁の寺)」によって生み出された、悪役のための悪役に過ぎません。いくらなんでも可哀想です。

 アカデミー賞に出したいと思うだけの文学性があることはわかりましたが、もう少し中身が必要に感じました。海外受けする雰囲気はあるものの、少なくとも「千と千尋」には敵いません。

 「水の都の護神」に限らず、ここまで子供向けの作品が劣化したのは、上の動画で宮台氏が説明されている通り、子供が一人で観ることを想定してつくられるからなのでしょう。


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