ポケモンレジェンズ・民俗学・日本とアジア

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 一月二十八日に「ポケモンレジェンズ アルセウス」が発売されて以来、YouTubeの実況を漁る毎日が続いていた。この習慣を完全に断ち切るためにも、観ていて感じたことをまとめていこうと思う(この先ネタバレ含む)。

哲学要素

 ポケモンのストーリーに文学性の類を見ることはなかったし、求めることもなかった。世界中の神話を典拠に作られていることは知っていたが。

 しかし今回は本気を出してきたな、という印象。ストーリー中、ラスボスが仄めかされる会話があったのは意外だった。さらに多元宇宙論や民俗学、哲学などの知識が総動員されている。

 ストーリーの最後、世界を創造した設定のポケモン「アルセウス」を捕獲するため、多元宇宙論の概念が用いられるのは必然だったのだろう。アルセウスは多元宇宙の観測者、バークリーの God 概念+多元宇宙論といった感じだろうか。主人公が捕獲するのはその分身なので、印度の一即多・多即一の思想も連想した。

 また、ストーリー中では「心」にスポットが当たっていた。時間・空間そして世界は心の前提があってはじめて生まれる現象。そう作中では語られる。この場面だけはドイツ観念論。

 それにしても最近流行りの異世界転生を使う必要はあったのだろうか。舞台のモデルが明治の北海道なので、プレイヤーを共感させる要素が欲しかったというのは理解できつつも、安直に感じた。

やがて消えゆくカミ

 世界観の魅力は大正浪漫と同様、光(近代)と闇(消えゆくものとしての前近代、土着性)が織りなす綾にある。

 敗北のペナルティもほとんどなく、いかにも安全といったイメージのポケモンだが、今作は打って変わって死の雰囲気がいたるところに漂っている。ストーリーの最序盤、主人公はとある組織へ所属するため試験を受けることになり、NPCからは「他に行く宛もないし、受からなかったら死だね」といったニュアンスのことを言われる。

 高所から飛び降りることもできる。海で溺れることもできる。そしてポケモンから技を受け、攻撃されることもある。その地方へ開拓にやってきた村の人々は皆、ポケモンの暴力性、そして未規定性を恐れている。

 読んだことはないが、中沢新一はポケモンの世界観と多神教のそれの類似に着目していた。そして前作までは人間によって調教され、半ば愛玩動物として扱われていたポケモンは、「カミ」として、その大地の至るところを闊歩している。

 雷の語源は「神鳴り」だ。人々はそこに、神の怒り、あるいは恵みといった両義性を見出した。どうも人間は、宗教的な感性が働くと、対象を両義的に見るようだ。作中、神鳴りを受けたポケモンは強化され、恐るべき力を発揮するようになる。それが善なるものか悪なるものか、ストーリーでは絶えず議論の的となる。

 エンディングでは、対立しあっていた人々が相むすび、ポケモンへの理解を深め、輝かしい共存の未来が暗示される。しかし異世界転生でのこの結論は問題を先送りしたに過ぎない。その先には恐るべき平均化の時代、「社会」というそれ自体が生き物のように意思をもつ、化け物との対峙を強いられる時代が待っているのだから。やはり異世界転生は「いま、ここ」からの逃避と近代以前への回帰願望の現れなのだ。

日本文化とアジア文化

 日本がかつて多種多様な人々の行き交う場所であり、アジア文化の編集地であったことは、記紀神話の内容から想像できる(異なるもの、対立物との融和、及びその失敗)。今作で感じたのはまさにこれだった、大和ではなく蝦夷だが。

 BGMではこれが印象深い。京都的な「みやび」から離れた「辺境」の文化。アジア的な、意識の階下へとおりていく神秘思想。沈黙、瞑想。井筒俊彦。主客の分節と合一。

 上の記事にて私は、「みやび」の論理構造とその他の美意識との共通性・差異を論じた。日本は確かに東アジアの東端にあるが、その文化は決してアジア文化の要素に還元できるわけではない。梅棹忠夫やエマニュエル・トッドの議論がそれを裏付けている。

 「みやび」から排除された古代の混沌や荒魂は、辺境ではいきいきと地を覆っていた。堀一郎の論文「日本の民俗宗教にあらわれた祓浄儀礼と集団的オルギー(Orgy)について」からもそれは感じられる。アジア文化の編集地たる日本において、アジア的混沌は辺境に息づいていたのではないだろうか。

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