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湯呑とコーヒー

 食器としての役割が果たせれば、あまり他は気にしないほうだと思っている。小学生の頃、夕飯のお茶碗で牛乳を飲んで母にみっともないと叱られたが、それ以降は一人のときにだけコップを洗い忘れていればこっそりとお皿を使って水を飲んだり、自炊のときにお肉を切るときには盛り付け皿に先に切った野菜をまとめたりしている。

 皿洗いに関して、普段からコーヒーを少なくとも1日1回飲むので、先延ばししないためにも、コーヒーブレイクの前に済ませるようにしている。それとも皿洗いをした後だからコーヒーブレイクになるのか。
 しかしまあ、そのおかげでコーヒーカップ以外で飲むことはほぼなかったわけで、わざわざ湯呑で飲むこともついぞなかった。

 今日は鉛のような倦怠感があったので、皿洗いはスキップして湯呑でコーヒーを飲むことにした。タイトル画像のお寿司屋にありそうなタイプだ(回転寿司屋ユーザーなので未だにお目にかかれていないが)。
 幼少期からの古株で、魚の難読漢字に興味を持たされたり、「サンマ」が「鰍」にならないことや、「鰍」の読みの一つの「カジカ」にも他に当てられる漢字があることを知ることになり頭を悩まされたりもした、そんな思い出も愛着もある湯呑だ。

 インスタントコーヒーの顆粒と砂糖をサラサラと入れる。湯呑に真っ白い砂糖を入れるのは非日常感を醸していてなかなか乙である。コーヒーなんか淹れられてしまえば、湯呑に書かれた魚は水質汚染ですぐお陀仏だろうな。かわいそうに。そう思いながら無慈悲にお湯を注いだ。

 ふと思った。水質汚染もなにもそこに棲む魚はお茶を何度も注がれていたではないか。想像力が今よりもずっと豊かだった幼少期から使っていた湯呑の中に、最初からお茶の中で生きる魚は存在していたのだ。

 幼稚園児の頃、先生の草取りのお手伝いをして、細長い草を引き抜いたら玉ねぎのような球根がついていたときのことを思い出した。園内で遊んでいるときにも見かけていた草が、どうせただの雑草だろうと思っていた草が、球根というとても唆られるものを持っていた。

 気づけば手元にはその魚の命の温もりが伝わってきていた。変温動物なので人が感じ取れる温もりなんか基本的には無いのかもしれないが、確かにそこには生命の熱があったのだ。

 長年道具を使い続ければ付喪神が宿るから道具は大切にしなさいと言われた子供の私は「長年使われてもまだ壊れないほど優秀だから神様になるんじゃないの?」と素直に受け取らなかったが、もしかしたら付喪神の本質は、このような出来事が思い出として道具に刻み込まれていくことなのかもしれない。


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