SNS の多義性について
世の中にSNS はかなり普及してきた。それでも、SNS を使わない人は一定数いる。年齢層が上がると、かなり多い気がする。
なぜ、使わないのか。
この問を投げかけて、印象的だったのは、「自分のことをいちいち発信するほど承認欲求が高くない」というものだった。少し口調に馬鹿にした感があった。もちろん一人だけの声ではなく、何人かがこの意見を持っていた。
ここには2つの問題点がある。
1つは、承認欲求の解釈。そしてもう1つは、SNS を一義的にとらえている点だ。
今回は後者について議論する。
分かりやすくするために、例えを使う。
包丁の例え
包丁はいろいろなものを切れる便利なものだ。しかし、あなたは包丁の役割を人を切るものだと考えている。あなたは殺人など好まないので、包丁など持たないと心に決めている。そして、肉を切るにも魚をさばくにも、手で必死にちぎろうとして、多大な時間を料理に費やしている。
さて、何が問題だったのだろうか?
答えは明白。包丁を凶器だと一義的にとらえていることだ。他にも便利で適当な使い方があるというのに。
これについて、SNS でも同じことが言える。承認欲求を満たすだけが、SNS の目的ではない。ビジネスにも使えるし、情報源の一面もある。SNS はもっと道具的で、多義的だ。
決してSNS を使えと言いたい訳ではない。ただ、実際使わないことによって、目的を固定してしまってはいないだろうか。視野が狭まっていないだろうか。
SNS だけではない。私たちはあらゆるものや行動に、1つの意味しか見えなくなることがある。食事は栄養を摂取するためにあるとか、服は着るためにあるとか。間違っていないけど、一側面でしかない。
それはそういう一面的な使い方、行動しかしていないから。栄養摂取だけの食事とか、小汚い服を着るとか。
ものごとがくだらないと感じたら、ぜひそのものごとの多義性について考えて欲しい。
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